小説を読んでいて空気に溺れた話~町田そのこ『52ヘルツのクジラたち』~

 おじゃまたくしです。今YouTubeで藤井風氏のライブを観ています。初めてちゃんと彼の曲を聴くし、知っている曲も2曲くらいしかないのに物凄く圧倒されています。ど真ん中で孤独だけど孤独じゃない感じがしていて……初めてがこれでとてもよかったと思います。

 私は時間の制約と他に邪魔するものさえなければ、ずっと本を読んでいる。「いつの間に暗くなっていた」なんてよくあることだ。好んで読むのは現代小説とかエッセイとか児童文学たまにマンガ、みたいな感じで純文学や外国文学はあまり進んでは読まないし、マンガだってワンピースとかこち亀みたいな王道のものは一ページも読んだことがない。レポートの課題で必要があって本を読むのは「読まされる」感覚があって、本にも失礼な気がして苦手だ。だから自分では読書家も本の虫も名乗れないとは思っているが、それでも周りの同年代の人たちよりは本を読む方だと思う。

 そうして一年の間にたくさんの本と出会っていく中で、「溺れる」感覚になるものに出会う。今年も出会ってしまった。ただ今年のは一味違う。それが本屋大賞2021を受賞した、町田そのこ先生の『52ヘルツのクジラたち』である。

 ネタばれは避けたいので仔細をここに記すのは差し控えるが、この物語は過去を捨ててひとり大分の海辺の町に引っ越してきた三嶋貴瑚と家族からは「ムシ」と呼ばれ虐待を受け、言葉を話せなくなっていた少年の物語である。

 物語を読み進めていって、タイトルの意味を知ったとき、私の周りから音が遠退いた。なんだか自分の周りに膜が張られたような、深いプールの底まで潜ったような、そんな感じがしたのだ。物語を読んでいる時はバイトの最中も私の周りには誰も入ってこれなかったし、物語を読み終わった後も、いつもならすぐ別の本に手を付けるのに、それから三日ほど周りの音が遠退いている世界に私はいた。

 私は今こうしてnoteでもしかしたら誰の目にも止まらないかもしれない記事を細々と書いていたり、大学生なのでそれまで得た知識や先人たちの研究結果を参考にしながら自分の言葉でレポートを書いたりするけれど、そこでつないでいく言葉は余りに歪でつたなくて、不格好が過ぎる。それゆえなのかそれだから尚更、なのか、『52ヘルツのクジラたち』以外にも物書きを生業にしている方々の文章を読むと「言葉に溺れる」感覚を味わうことがある。でも空気にまで溺れたのは初めてかもしれない。そこは音が遠くて周りはなにも無くて、誰も入ってこれないし当然邪魔できない。

 その世界から抜け出してきたとき、心地よい疲労感とともに「ああ、この本に出会えてよかったな」という満足感、それから早くまた新しい物語に出会いたいというワクワクが心の底から湧き上がってきたのだ。

だから私は今日も空気には溺れることが出来なくてもまた言葉に溺れたいと本を開くのである。

知識をつけたり心を豊かにするために使います。家族に美味しいもの買って帰省するためにも使います。