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野点テロリストにご用心👀

89歳になる私の母は陶芸や漆器が大好きで
実家の食器棚は骨董屋のようである。

その母の食器棚から失敬してきた萩焼の抹茶茶碗。
でも私は抹茶は日常的に飲まなくてコーヒー中毒だから
その萩焼の茶碗でいつも、あろうことかコーヒーを飲んでいる。

アメリカ人の逆輸入禅マスターのエリックさんは
30年の経験を持つ茶の湯マスターでもある。

そのエリックさんがコーヒーで茶色く変色してしまった
母の萩焼の茶碗を見て叫んだ。
「なぜこの素晴らしい茶碗でコーヒーを飲む???」
大きな両手のひらで萩焼を包み込み、しばし覗き込んでから
にやりと笑ってこう言った。
「でも利休ならOKって言うよ、きっと」

日本における茶道は形式主義に陥り
礼儀作法を学ぶ場所、あるいは花嫁修行にまで堕ちてしまったが
そもそも利休が試みたことはそれとは全く正反対のことだ、
そんな会話の後である。

半年ぶりに広島を訪れてくれたエリックさんは
今回は小さな籠に入った野点セットを持ってきて
あらゆる場所でお茶を点ててくれた。

元安川の土手。
平和記念公園。
ある午後に一緒に縮景園を訪れた。
素晴らしい茶室が何軒も建っているのに全部閉まっていて
中に入れない辛さに身悶えしそうなエリックさんは
池のほとりの小さな屋根付きの板の間を見つけた。
「ここが私たちの茶室だ!」
「いや、ここお食事はお断りしますって書いてあるよ」
「茶の湯は神聖な儀式、食事ではない」
キッパリ断言した彼はその場に座って野点セットを広げた。

エリックさんが緩やかな動作でお茶を点て始めると時間が止まる。
夕暮れの光と香りや味わいや微笑みや
その場を構成するすべてのものが細かい粒子になって身体を満たす。

そこに立派な茶室や金屏風は要らない。
(もちろん国宝級の抹茶茶碗があるとそれはそれで嬉しい)
これこそが本当にマインドフルネスの瞬間だと感じるし
それを言葉ではなく、こんな風に体現できるようになるのは
瞬間瞬間を重ねていく以外にどんな修行も敵わないのだな、と思う。

私に茶の湯を教えてくれている時に
茶碗を洗うお湯を一時的に例のコーヒー茶碗に移そうとしたら
「ダメ!」と言われた。
だって洗うためのお湯じゃん、と思ったら
「コーヒーの香りが抹茶茶碗に移る」と怒られた。

自分の無神経さを反省。
禅を体現するようになるにはまだまだ遠い道のりらしい。




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