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大切な人の死はちゃんと悲しんだ方がいい。

おばあちゃんが天国へ行った。

97歳。大往生。

知らせが届きすぐにおばあちゃん家へ。
いつものベッドで眠るように冷たくなったおばあちゃんと対峙。
そろそろだ…と聞いていたし、私はびっくりするほど冷静だった。

同居の伯母の意向でお坊さん呼ばずお通夜もお葬式もなし。

感情をおばあちゃんのもとへ置いておくことができないまま日々が過ぎる。
日がたつにつれ、ちゃんとお別れできなかったことでふとした時に涙がにじむ。
お別れの儀式って大事なんだな。と気づく。



小学1年生の頃、おばあちゃん家へ学校終わり毎日帰っていた。
「食べ!」が口癖のおばちゃんは私がおいしそうにさつまいもを食べる姿をみると、次の日には1本が2本に、その次の日は3本に。
見兼ねたおじいちゃんは「お腹いっぱい言うとるやろ!食わすな!」とおばあちゃんを叱る。
それでも全く意に介さない様子で「食べ!!!!」と強気のおばあちゃん。
その2人のやりとりが子供ながらになんか好きだった。
小学校2年生以降は一人で自分の家に帰っていた。
でも、熱が出たときは大好きなおばあちゃん家に行けた。
ふかふかの布団が用意され、ひいおばあちゃんのりんごのすりおろしジュースが飲め、おじいちゃんが小学雑誌を買ってきてくれ付録を作ってくれる。
おばあちゃんは相変わらず「食べ!!!!」と言う。

おばあちゃんのもう一つの口癖「まああああああ!!」
どんな話でも「まああああああ!!」というリアクションをもらえる。
まあああああああ!!のそれは笑いながらのときもあれば驚きながらのときもある。
60代で脳梗塞で倒れたおばあちゃん。右半身がマヒした状態でさつまいもふかしてくれたりご飯作ってくれたりふかふかの布団用意してくれたり色んな「まああああああああ!!!」をくれたり。

晩年は少しずつ私の事も誰かわからなくなってきたけど、会いに行けばとってもうれしそうな顔と時にはかわいいかわいいと涙を流して左手で私の手をぎゅーーーーーっとしてくれる。
その握力の強さに「あ、おばあちゃんまだまだ元気だな」って嬉しくなった。

色々理由があっておばあちゃん家に行きづらくなってしまったここ数年。
そして天国に行きお別れがちゃんとできなかったここ数日間。
97歳、十分に生きてくれた。と思っていた。
でも人の死に「十分」なんてあるのだろうか。「天寿を全うする」というけれど、何をもってそういうのか。
少なからずおばあちゃん自身は針も入らないような血管に無理に点滴をして延命するよりも自然に枯れるように最期を迎えたかったのではないか。
天寿を全うするとはこちらのエゴで延命することではない、と私は思う。
私はたとえ早く死を迎えることがあろうとも、私自身が天寿を全うしたなああ、とあの世から思えてたら最高だな、という人生を送りたいと思っている。長生き=天寿を全うというわけでもない。

大切な人の死と対峙するとき、どれだけ覚悟を決める時間があったとしても、やっぱり大切な人の死はいつだって悲しい。
だからせめて、お別れの時間、悲しむ時間、泣く時間だけはしっかりととりたい。悲しい感情を日々の忙しさにかまけてなかったものにしたならば、あとあとギシギシと自分の心が蝕まれていく。

うまくお別れが出来なかった悔しさから
こうして今の想いをnoteにしたためる。これが今できる私なりの悲しみの浄化方法。

おばあちゃんありがとう。
天国でゆっくり過ごしてね。

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