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「(K)not」第十五話

 襟人らが帰宅すると家に明かりが灯っていた。
 
 不安の中、独り待機させられていた瞬が湯を沸かしていてくれたお陰で、ずぶ濡れになった有馬は熱々の湯船に浸かりさっさと寝てしまった。爽の無事を確認した和二郎は家族に礼を言い、疲労困憊した面々はようやく床に入ることが出来た。

 翌日曜日の午前七時である。

 昨夜から降り出した雨は、日付が変わる頃には暴風雨になり、日曜日の明け方上陸した台風は一昼夜かけて日本列島を横断する予報だ。

 彼此15分以上になるだろうか、理紀は一階の和室の前に立っていた。晴三郎が作ってくれた出来立ての粥が載った盆を持っているにも関わらず、襖はまだ閉じたままで、彼は引手に手を掛けたり離したり、全く落ち着かない様子でウロウロしていた。

 今朝、案の定高熱を出した爽の、その見事に腫れ上がった左頬を見て驚愕した理紀は、奇声と共に荒々しくキッチンへ飛び込んだ。その取り乱した様子に、勝手口で煙草を吸っていた和二郎が怪訝な顔をする。

「何だ?」

「・・・爽の顔面が。」

「見たぁ?スッゴいだろ。」

 父の暢気な様子にキレそうになりながらも、何処へぶつけたらよいか分からなくなってしまった感情の昂りを、泣き声のような叫びとともに和二郎へ投げつけ、理紀はキッチンから走り去った。長い間堰き止めていた気持ちが、一気に溢れ出して止まらないのだろう。脳内でドーパミンがドバドバなのだろう。

 冷水で絞ったタオルと冷却シート、解熱剤とペットボトルを持って飛んで戻ると、爽は頬の腫れに伴い相当熱が上がってきているようだった。

 (とりあえず、冷やそう。)

 苦しそうに肩で息をしている爽の赤く腫れた頬に、勢い良くタオルを押し付け声を上げられた。

「わ、わわっ・・・悪い。」

「雑・・・。」

 わずか30秒後、理紀は再び廊下に立っていた。

 実を言えば、理紀の拳にそれまでの威力は無かった。腫れの殆どの原因は、爽を正気づかせる為の有馬のビンタであったことを彼は知る筈も無く、押し寄せる罪悪感に居た堪れなくなり、盆を持ったまま回れ右をしてしまった。そんな理紀を見兼ねて、晴三郎が粥を炊いて盆の上に置いてくれた。

 のだが、そのまま15分経過した。この体たらくである。

 しかし土鍋の中の粥は適温に冷めた。理紀は自分にそう言い訳をして襖を開けた。
 
 声を掛けても、眠っているのか爽の返事は無い。和二郎と晴三郎の寝室となっている和室にはエアコンがついていて、ひんやりと心地よかった。小さく上下している布団の膨らみにそっと近づいて覗き込むと、先刻より早く荒い息遣いが聞こえてきた。額に手を当てると熱い。額の汗をそっと拭ってやると、うっすら瞼が開き、熱で潤んだ瞳が覗く。

「苦しいか?」

 理紀が聞くと目玉だけがぐるんとこちら向いた。何か言っているようだが腫れ上がった頬で声が篭って聞こえない。

「何か腹に入れて解熱剤飲め。」

「いい、食べたくない。」

「言うこと聞かないと坐薬刺すぞ。」

「・・・うわ、最悪。」

「晴さんがお粥作ってくれたから食え。食って汗かいたらこれ着替えな。」

 理紀が枕元に腰を下ろすと爽は嫌々身を起こした。腫れた頬で口が開き辛いので、蓮華で少しずつすくって流し込む。食物の滋養が空っぽの胃に染み込んでくる。噛む必要がないほど薄い粥を3分の2程食べるとじんわり汗ばんできた。スポーツドリンクのペットボトルを空けると、更に汗が噴き出してきたので寝間着の袖で額を拭う。

 解熱剤が効いたのか、穏やかな顔で眠る弟の顔を見ていると、硬く冷えていた心が氷嚢の氷と同じスピードで溶けてゆくのを感じる。

 理紀は母が亡くなった当時のことを思い出していた。まだ幼なかった弟と父と三人で、突然大波に揺れる海の真ん中に放り出された様だった。父は船の舵を取るのが精一杯で、弟は一人では立てず自分にしがみ付いて来る。必死で弟の手を握り、倒れないように脚を踏ん張って生きていた。

 (だから、急に手を離したらバランス取れないだろ。)

 船を降りて地上に立つと、ずっと感じていた弟の重みが消えた。

 身軽になってホッとしたはずだったのではないか。

 積荷は全て海に捨てたのではなかったか。

 爽の寝息を聴きながら、疑問を振り払う様に寝床を離れようと立ち上がろうとしたその時、

「・・・で。」

 微かな声に振り返ると、爽の手が何かを探す様に空を彷徨っている。

「・・・行かないで、りいちゃん。」

 理紀の心臓に何かが音を立てて突き刺さり、呼吸が止まるほど動揺した。

 あの狭い二人きりのアパートで、布団を被り声を殺して泣いていた。発熱で学校を休み苦しんでいた時、同じように手を握ってやった。この頼りない腕はいつも自分に向かって伸びていたのに。

 すぐに熱を出す。食べても戻すし、長時間は歩けない。いつも泣いてばかりで、いつも謝ってばかり。自分を呼んでしがみついてくる髪の匂い、頬の感触、体温。自分と一番近い細胞でできた小さな体。かけがえのない弟という命。

「りいちゃん、いる?」

「いるよ。」

 溶けた心が沸騰する。自分を求める熱い手を軽く握ってやると、再び爽は眠りに引き込まれるように静かになった。堪らない寂しさに涙が溢れる。

 しがみ付いていたのは、俺の方だったのか?

 理紀は、自分の中にまだ開けられていない積荷を見つけた。






序〜第三話、はてなブログからの転載です。