レシピのバトン、餃子の遺伝子
「今日の夕飯何にします?」
夕飯の献立に悩んで、私はよく同僚にそんな質問をする。週の前半は土日に買った食材や作り置きの惣菜があるので、献立に困る事は少ない。私調べでは水曜日あたりからメニュー決めは徐々に行き詰まりを見せ、完全に冷蔵庫の在庫もアイデアも尽きてきた木曜日くらいに他所のお宅の献立を聞いて参考にさせてもらう。
みな私と同様に、仕事を終え帰宅してから何か作って食べている。
「今日はぎょうざの満州で冷凍餃子を沢山買って帰って焼きます。知ってます?ぎょうざの満州。安くて美味しいんです」
小学生の子が2人いる同僚がそう言った。
餃子か。いいな。
街中華と呼ばれるような普通の中華屋さんでビールのお供に、あるいは炒飯と一緒に頼む餃子は食べる前から脳が浮かれる。家の近くならあそこ、会社の近くならあそこ、好きなサウナの前後に寄るならあそこ、とすぐに何軒かの店の餃子が頭に浮かぶ。若い頃出張先の博多で初めて食べたひと口サイズの鉄鍋餃子、池袋の路地裏の店のムチムチの水餃子とパリパリの羽付餃子、下北沢珉亭、上野昇龍。
餃子は大人になってから更に好きになった食べ物の一つかもしれない。
店の餃子に負けないくらい、実は自分で作って家で焼く餃子が好きだ。作るならニンニクや生姜を沢山入れて沢山食べたいので平日には作れない。
私は普段は比較的情緒が安定している人間だが、餃子がフライパンにくっついてボロボロになった時だけは不機嫌が隠せなくなり、フライパンごと乱暴に捨てたくなる。逆にフライパンをひっくり返して、敷き詰めた餃子が大輪の花のように綺麗に皿に乗った時は「よし!」と声に出してしまう。
母は料理が好きだったので、子供の頃から色んなものを作ってもらった。そしてきちんと教わったわけではないそれらの味の記憶が、今の自分のレパートリーになっている。
しかし何故か母の餃子の思い出がない。
餃子は母の母、つまり祖母の得意料理だった。
子供の頃に親と一緒に満州に渡った祖父母はそこで知り合って結婚し、数年後幼かった母と弟を連れて日本に引き揚げてきた。私が物心ついた頃には生活はすっかり安定しそんな気配すらなかったが、日本に戻ってきた直後は茶碗一つない極貧生活からのスタートでとても苦労したそうだ。
祖母の家で母とよく餃子作りを手伝った。餃子を包む時に2人はよく満州の話をしていた。思い出の味だったのかもしれない。
一人暮らしだった頃は出来上がった餃子を貰って帰ったり、結婚してからは餃子の種が畑で採れた野菜と一緒に送られてきたりした。だから私の餃子のルーツは祖母の餃子だ。
豚ひき肉、キャベツ、ニラ、生姜、ニンニク。塩と胡麻油少々。材料がなじむまで手でしっかり混ぜて包んで焼く。
材料も手順もいたって普通の餃子だが、何十回同じように作っても毎回ほんの少し祖母の餃子に敵わない。
もはや祖母の手から独自の出汁が出ているとしか思えない。
祖母の餃子をもっと食べたいし満州での生活についてもいつかちゃんと聞いてみたい。そう思っているうちに祖母はどんどん子供に戻っていき、ご飯が作れなくなり自力で食べられなくなり徐々に色んなことを忘れて数年前に亡くなってしまった。
何度も食べたり作ったりしながら、いつの間にか受け継がれていく普通のご飯について最近よく考える。
私がなんとか毎日ひねり出す夕飯の献立は、母のだったり祖母のだったり、はたまた知らない誰かの味の思い出で出来ている。
名もなきレシピは誰かの人生のバトンのような気がする。
自分の子供達も、いつかのわが家の献立を思い出して再現しようと試みる時が来るのだろうか、来たら嬉しい。
若い頃にすすんで台所仕事を手伝わなかった私が今どうにかこうにか食卓を切り盛りできているのは、必要に迫られて繰り返し作ってきた経験と、そんな風に祖母や母が作ってくれたご飯の記憶のおかげに他ならない。
今でも餃子の種を捏ねている時包んでいる時、必ず祖母を思い出す。
週末は餃子作ろうかな。
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