何のために大学に行くのか?私が慶應文学部から学んだこと
大学は人生のモラトリアムだ、とか
毎日暇で遊ぶところだ、というイメージが巷では囁かれていますが
私は慶應義塾大学文学部に通ったことで人生自体が変わったと思うほど
学ぶことがたくさんありました。(飲み会もたくさん行ったけど)
起業したのも、演劇やミュージカルに関する事業をしたいと思ったのも
大学時代の経験が影響しています。
特に「文学部」は、就職に不利だとか、言われがち。
私自身、そう思っていた時期もありました。
今回は「文学部で学ぶこと」「大学に通うこと」の意義を
私なりに紐解いて行きたいと思います。
1. 就職に有利な学部はどこか?と考えていた高校時代
私は中高私立の進学校に通っており、成績別にクラスが分けられていました。
私が所属していたのは「国立文系クラス」。
所謂東大を目指すクラスです。
成績から国立クラスに入ってしまったものの、少々捻くれていた私は
「みんなが目指しているからという理由で東大を受験するのは嫌だ」という謎のプライドを持っていました。
そこでどの大学に行くかより、何を学びたいか=学部をまず選ぼうと思い
最初に浮かんだのが「法学部」でした。
理由は、就職に有利そうだから。
国語が得意だったので、経済よりは判例の方が覚えやすそうだから。
当時の私にとって、大学=就職前に行く場所、だったのです。
2. とりあえず法学部と文学部を片っ端から受けることに
しかし幼い頃から『ハリー・ポッター』や重松清さんの作品を
呼吸するのも忘れて読み続けては、ボロ泣きしていた私を見ていた母は
「文学部には行かないの?」と聞いてくれました。
そこで、私はびっくりしました。
通っていた高校では「大学受験」が当たり前であり、
偏差値の高い大学を目指すのが当たり前。
敷かれていたレールを何の疑いもなく進んでいたので
大学も就職までのレールの中の1つであり
「好きだから」という理由で学部を選ぶという発想自体がなかったのです。
ただ、当時成績が伸び悩んでいた私は
とりあえずあらゆる大学の法学部・文学部を受けまくることに。
「良い大学には行けないかも」と担任の先生に言われたのが悔しすぎたので
本当に片っ端から、2月はほぼ毎日受験してました。
3. 「ここに行く」と決めた慶應文学部の入試日
そして、運命の日がやってきました。
慶應義塾大学文学部の入試の日です。
慶應の文学部の入試は少し変わっていて、英語・歴史・小論文の3科目。
小論文には、大体こんなことが書いてありました。
(私の記憶で、大体で書いているのでご容赦ください)
自分の暮らす街が戦地になった時、人々が求めるのは食糧ではなく文学だ。文学は「辛い現実」から離れる時間をもたらし、想像する力は人の心を癒す。
その時、私は「文学を学ぶことの意味」「人の人生に文学が必要なこと」を学び、そしてその意義の大きさに身震いしました。
受験生に対して、こんなことを投げかけてくれる学部があるんだ。
私はここで、文学を学ぼう。
世界の人々に「必要」な文学を、慶應で学ぶぞ。
合格する前から、試験中に、確信していました。
4. 言葉の力は人生の糧になると知った
無事、慶應の文学部に受かった私は英米文学専攻に進み
劇作家・シェイクスピアを学ぶゼミに入りました。
そこには、何世紀にも渡って語り継がれるシェイクスピアの言葉の1つ1つを
丁寧に紐解き、その言葉の裏側にある時代や人間模様を考察し
「言葉」の奥深さと真剣に向き合う日々が待っていました。
言葉は時に人を癒し、時に人を惑わせ、時に人を傷つけるということ。
言葉だけを受け取らず、その裏にある想いにまで想像力を働かせる必要があること。
「言葉」とは何か、「言葉の力」とは何か。
そこに向き合えたことは、私の人生の糧であり、生きる軸になりました。
慶應文学部に通ったことが、私のプライドとなり、
私の人生を確かな道のりにしてくれました。
大学に通った道の先に、就職は確かにあります。
だけど、もっと大きく見てみると
人生の中に、大学も就職もあるのです。
人生には限りがあります。
時間は限られていて、そして平等に流れていく。
もし「好きだけど、不利になるんじゃないか」という理由で
「好きなことを学ぶこと」を諦めようとしている人がいるのならば
「自分が人生をかけてやりたいこと」という軸で
選んで欲しいなと思います。
そして、文学部で「言葉」を学んだからこそ。
残念ながら2020年は、演劇やミュージカルが文化として
重要視されていないのだと強く認識させられた年でしたが
それを変えてやろうと、思います。
言葉の力が体全体に染み渡ってくる演劇は、絶対に「必要」なのです。
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