挑戦を通じて得られること
これを読んでくれている人。
少しだけ時間をとって、今自分自身が挑戦しているかどうかを考えてみてほしい。
挑戦すること。
誰しにも挑戦することは可能だ。
ただし人生の期間において、挑戦したくてもできない時は事実として存在する。
経済的な要因、時間的な要因、その他諸々の要因が挑戦を妨げることはあると思う。
自分は3年前にウルグアイに来て、この地でプロサッカー選手になるという目標を掲げて挑戦してきた。
僕の日常はごくシンプルだけれども、そのどれも大事な挑戦の日々だと言える。
傍目から見れば、アマチュアリーグのチームでサッカーをして、チームの練習時間以外は特に仕事をするわけでもない自分の日常は好意的には受け取られないかもしれない。
親のスネをかじり続ける日々。日本に帰らないための言い訳は嫌になるほど考えた。
一般的に言う”敷かれたレール”から逸れた人生を送ると、本人が意識せずとも、レールから外れたことによる疎外感、孤独が襲ってくる。
また挑戦を続ける中で、時を重ねても結果が出ないことは大きな重圧となってのしかかってくる。
3年。
長いとも言えるし、短いとも言えるこの時間。
それが持つ意味は小さくて大きい。
「25歳でアマチュアリーグでプレーして、ろくに仕事もしないで、どうするんだ。」
「親に心配かけて恥ずかしくないのか。」
「サッカーの世界で25歳のプロキャリアがない選手には、誰も興味を示さないよ。」
世の常識に照らし合わせて今の自分の置かれた状況を分析すれば、いまやっていることはただの無謀な挑戦だろう。はたまた、そんなものは挑戦じゃなくて、ただの時間と金の浪費じゃないか、そういわれても文句は言えない。
プロチームのテストに落ちるたび、自分の実力を疑い、試合に負けるたび、自分の存在価値を疑い、目の前の現実を見つめるたびに、絶望に打ちひしがれ、何度も挑戦をやめようと思った。
辞めるための理由を探すのなんて簡単で腐るほど見つかる。
サッカーのために費やしてきた時間。
自分が今まで生きてきた人生に意味はあったのか。
考えつく限りのネガティブな言葉、感情をこの挑戦してきた期間ずっと自分に投げかけてきた。
おかげで自分が嫌いになって、サッカーまで嫌いになりそうになって、誰かのせいにする自分まで現れた。
海外で仕事がなく、家族もいなく、サッカー選手としての実績もない状態は誰も知らないけれど、みんなが思う以上にしんどいものだ。
自分にだって、家族に心配をかけたくない一端の心はある。
だけど、こうやって自分がどん底の淵に立って、自分を嫌いになって、何かを憎みたくなるほどの感情を抱えても挑戦し続けるのは、サッカーにおいてこそ本当の自分を見つけられるからだ。
その点で僕は究極のエゴイストなのかもしれない。
サッカーとは人生そのもの
挑戦と言えば聞こえはいいかもしれないが、綺麗事で片付けられるほどシンプルな話じゃない。
サッカーとはよく人生そのものと表現される。
そのとおりだと思う。
なぜか。
人間の持つ感情を人生においてそれ以上はないと言えるほどに揺さぶり、湧き起こし、爆発させることができるから。
これ以上なく生を実感する瞬間。
怒り、憎しみ、悲しみ、喜び、楽しみ、笑い、踊り、苦しみ、叫ぶ。
サッカーは最も人間らしく、汚く、ずる賢く、それでいて愛に溢れたスポーツ、遊び。
大人を子どもにし、人本来の姿を映し出す。
ウルグアイでサッカーをしているとそう感じる。
サッカーでは不思議でもなんでもなく最も人間らしいやつが必ず勝つようになっている。
最近はテクノロジーの発展とグローバル化によって一気に世界のサッカーが均一化してきて、どれも似たようなサッカーに見える。
どんどん機械がやるようなそれに近づいている。
そんな感覚を覚える。
ある時Twitterで『サッカーの未来は過去にある』というフレーズを目にし、まさにその通りだと感じた。
いまこそ南米サッカーの野蛮さ、そのエッセンスを蘇らせる時だと。
本物のサッカーを知っている人たちはサッカーの底知れないパワーを身を持って体感している。
だからいくら機械のようなサッカーが世界を席捲しようが、本物のサッカーを知る人たちがいる限り、人間らしいサッカーが滅びることはないと思う。
それぞれの挑戦
僕は本物でいたい。
自分に嘘をつきたくない。
生きていることを実感したい。
ここまで来るのに、数え切れないほどの障害を乗り越え、壊し、時に回り道をして歩いてきた。
たくさんの愛すべき人たちに助けられながら。
彼らに恩返しできる唯一の方法は、自分が自分らしくいること。
そのためにたゆまぬ努力を惜しまずすること。
全力で自分が思う本当にかっこいい自分を生きること。
挑戦を続けていると時に自分の予想を裏切る形で、新たな自分に出会えることもある。
僕は幸運にも、挑戦する期間で人生の道しるべとなる人生の先輩たちに出会えた。
自分を傷つけ、自信なんてこれっぽちもなかった自分がサッカーを通じて”自分自身”へと挑戦し続けてきたことで本当になりたい自分の姿を見つけ、そして最高の仲間に出会えた。
日本
僕は日本に帰る度に相反する2つの感覚を同時に覚える。
ひとつは家に帰ってきたときのホッとするような感覚。
もうひとつはなにか得たいの知れない冷たい感覚。
だから日本に帰りたいけれど、帰りたくない。
日本社会に蔓延る、あの独特な過剰なまでに周りを気にしなければならない感覚。
それは人々が自分らしくいることを否定し、挑戦するチャンスを奪う。
様々な要因があると思うが、ひとつに日本の教育があると思う。
用意された答えを導くためのテスト。
既に正解が設定されていてそれを暗記するだけで解ける問題。
でも人生はそうじゃないことのほうが圧倒的に多い。
自分の頭で考え、そのときに最適と思われる仮の答えを導き出す力が求められる。
少なくとも、自分で考えられない人には、自分がどうなりたいかなんて分からない。
好きなことが分からない、やりたいことがない、じゃなくて、自分で考える力、感じる力がないだけなんじゃないか。
何を持っているか、どこにいるか、なにをしているか、なんてさほど大切ではない。
その人がその人らしくいられるための社会。
それを作り上げていくことは簡単なことじゃないっていうのは分かっているけれど。
でも考えてみてほしい。
みんな元は同じ人間なんだと。
みんなもともとはファミリーなんだと。
そこにいる彼も、彼女も、その他すべてのまったく知らない道端ですれ違う人でさえ、みんな元をたどれば、同じ兄弟なんだと。
そこに人間らしさを見出して僕は生きてゆきたい。
サッカーという人間味に溢れた遊びを通じて挑戦しながら。
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