No
彼の名前はフアン•パウロ•ソリン。
元アルゼンチンサッカー代表の選手だ。
パッと見は長髪の髭面で、怪しい雰囲気があるが、彼の眼差しと自信に満ち溢れた態度からは人を魅了する何かが感じられる。
動画のタイトルはNo。
この動画を見て思ったこと、それは人生において大切なことはYesと言えることよりも、Noと言えることなんじゃないか。
そして更に誰かにNoと言われたときに、NoをYesにしようとする意志。
動画中で彼はボランティアを一人募って、あるチャレンジをボランティアの青年にやらせる。
そのチャレンジでは青年の横にサッカーボールを持った人がひとり、その反対には机があり、水の入ったボトルが置いてある。
まず最初にサッカーボールを持った人がボールを転がすから、それを青年は舞台上から落ちないように拾いに行かなければいけない。
ただサッカーボールが放たれたその2秒後に机の上のボトルも転がされる。
青年はサッカーボールを拾いに行くが、ボトルはあっけなく床に落ちてしまう。
そこでフアン本人がチャレンジしてみせる。
彼はボールが放たれると同時に身を投げ出して足でボールを止め、そして素早い身のこなしでボトルも見事キャッチした。
一見不可能に見えたチャレンジを彼は成功してみせた。
ここで話を戻してみる。
Noと言われた時に、それを跳ねのけてYesにしようとする意志。
僕が、今年に入って練習参加やテストにいったチーム数は2部3部含め、10チームを数える。
グランドに着いて、あとはスパイクを履いて練習するだけの段階で代理人側のコミュニケーションミスによりNoと言われたチーム。
別のチームでは、1ヶ月も練習参加して、監督からは欲しいと言われていたのにも関わらず、上層部から気に入らないと言われて首を切られたチーム。
また別のチームでは、コロナウイルスの影響でテスト自体が流れてしまったチーム。
純粋に実力が及ばず、Noと言われたチーム。
目に見える結果だけでも、何度もNoと言われた。
サッカーというスポーツは90分の中で、何度もNoを突きつけられるスポーツだ。
その度に、自身を失っていてはこのスポーツでは勝てない。
ウルグアイに来て3年、1番成長したのはNoと言われてもすぐに立ち上がって、前に進もうとする意志だと思う。
こう思えるまでには長い道のりがあった。
いま思えばちっぽけな過去の成功体験にすがっていたと感じることは山のようにあるし、ちっぽけなプライドにしがみついていた自分も知っている。
自分と向き合う勇気がなかった時期もたくさん経験した。
いつも誰かの評価軸で物事を判断し、生きていた。
だから自分で決めて、Yesと言ってたんじゃなくて、Yesと言わされていただけだった。
世の中の大抵のことは、まるでずっと以前から当たり前のように存在していたかの如く、僕たちの目の前にそびえ立って現れる。
だからYesと言うしかないように思えるかもしれない。
そこに選択の余地はないかのように僕たちをコントロールしてくる。
でも本当はそうじゃない。
サッカーは決められた大枠のルールのなかで、自由にプレーするスポーツだ。
そのルールだって元を辿れば、人が考え出したものであって、変えることだって全くもって不可能ではない。
だから憲法や法律だって、時に形を変える。
Noと誰かに言われて、潔く"はい、そうですか"と受け入れるだけなら自分の欲しいものは何も手に入れられない。
もっとサッカーが上手くなりたい。
面白いサッカーがしたい。
新しい景色が見たい。
だから僕は誰かにNoと言われても関係ない。
ルールの中でプレーすることはもちろんだけど、時にはその当たり前と思えるルールにも疑いの眼差しを向けられるか。
人生はもっと自由で想像/創造と驚きに満ちあふれているはずで、僕たちは自分たちの持てる可能性をもっと発揮できるはず。
ずる賢く、しつこく、それでいて器の大きい人間になること。
それが今の自分のひとつの目標だ。
自分の言葉で、自分の意志で、僕はいまウルグアイの地に立っている。
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