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サッカーの辞め方

消えた天才、井村亮

ある日本の番組で消えた天才、古田敦也が勝てなかった天才と称して大学野球で今なお破られていない大記録、53イニング連続無失点、5試合連続完封を成し遂げた志村亮さんという人物について知った。

彼は大学卒業を控えてプロ8球団から獲得にむけて関心を寄せられていたにも関わらず、あっさりとその野球人生に終止符をうち、一般企業へと就職した。

なぜプロへの道をいとも簡単にあきらめることができたのか。

それは彼が、「自らの手で、納得した形で野球人生に終わりを」と考えていたからだ。

多くの選手たちが戦力外通告やケガによってそのキャリアに半ば強制的にキャリアに終わりを告げるのがプロの世界だ。

彼は大学生のときに完全燃焼という文字の刺繍を施したグローブを手にマウンドに立ち、今なお破られない大記録を成し遂げその野球人生を悔いなく終えた。

彼は自身でも野球は大好きだったと言っているし、その言葉にきっと嘘偽りはないと思う。

そこにプロであるか、アマチュアであるかはさほど問題ではなかったのだろうと思う。


サッカーをやる意義、やりがい

僕はこの話を知ったときに、自分はどれだけサッカーを辞める時のことに向き合ってきたんだろうと思った。

いままではなんとなく、ただ年齢やだいたいこんなもんだろうみたいな感じで片づけていたのが正直なところだ。

終わりを見据えるということを本格的に考え始めたのは、つい最近のことに思える。

身近な人の死を目の当たりにして、「始まりがあれば、終わりがある」という普遍の真理が自分の中に刻まれた。

みな誰しもが、死という最終地点に向かいながら一日一日を歩んでいる。

サッカー選手は一部の選手を除いてほとんどの選手が20代半ば、30歳手前で引退する。

サッカー選手の死、引退はかなり早い。

サッカーを愛するものとして、サッカーに対する気持ちはきっと引退したあとも消えることはないんだろうと思う。

そうなると自分が納得した形でキャリアを終えるにはその選手なりの目標意義を見出し成し遂げられたかどうかにかかってくると思う。

目標は達成できることもあれば、思い通りにいかないことも多々ある。

最も大事なことは、サッカーにどんな意義やりがいを持っているかなのかだと思う。

人によっては「好きだからやるそれだけだ」っていう人もいると思うし、みんな好きでやり始めたんだから全く問題ない。

ただし競技スポーツとしてやる以上は、誰しもそのキャリアに終わりを告げなければいけないのだから、そのテーマを避けることはできない。

僕は、サッカーへの意義やりがいを自分のなかに持つことができれば、選手としてのキャリアの先に待っているその先の道においても、意義やりがいを感じながら生きていけるはずだと思う。

ただし、サッカーを単なるスポーツとだけでしか捉えていないとサッカーでしか意義やりがいを見出せなくなる。

サッカーは単なるスポーツではなく、人生そのものといえるほど深い広いものなのだから。

違うことを認める文化

日本では事なかれ主義、続ける美学やあるせいで、辞めることに対してあいまいにしたり、触れないようにする空気感があるように感じる。

辞めるとは少し違うが、僕が去年ウルグアイでリーグ戦を戦うなかで経験したことが一つある。

チームメイトのひとりが週末のリーグ戦を控えた練習で今週末の公式戦には行けないと言い出した。

その選手は10番を背負っていてチームのエース。

なぜ行けないかというと試合の日が母親の誕生日と重なってしまったからだった。

その話を選手全員に向けて話したときのチームメイトの反応は、なんで来ないんだではなく、拍手でその選手の考えを尊重するというものだった。

プロであるとか、アマであるということは一旦置いておいて、辞めるという決断、そして家族との時間を大切にしようとする姿勢に対しここまで潔く周りが認められる、尊重できる文化があるのだなと感じた瞬間だった。

日本には団結する力、決められたことに対して徹底する力があるけれど、時としてそれは同調圧力を生み出し、ひとりひとりの自主性を奪うことに繋がる。

これからの変わりゆく流れの激しい時代を生きていくには、またこのコロナウイルスによる自宅待機が求められる今こそ、終わり方、辞め方について考えてみるべきなんじゃないかと思う。

そして辞め方を考えることを通じて、意義ややりがいに気づき、より前向きに生きられる、また周りの人々の価値観を尊重できるそんな世の中になればいいと思う。


#サッカー #ウルグアイ #南米サッカー #コロナウイルス #辞め方

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