見出し画像

『お前は一体、サッカーで何がしたいんだ?』

まずこのnoteは現在、鎌倉インターナショナルFCで監督をされている河内一馬氏の『お前は一体、サッカーで何がしたいんだ?』のオマージュです。



僕は物心つく頃には、兄の影響でサッカーボールを蹴り始めていた。自分がサッカーをやり始めた理由は、ただ兄と家の前の壁に向かってボールをぶつけることに夢中になっていたからだ。その時はサッカーが好きだとかそんなことを当然考えることもなく、ただ夢中になって毎日ボールと遊んでいた。

僕は小さいころから大の人見知りで、5つ年の離れた兄が当時所属していたサッカークラブの試合に母親と応援しにいく度に、母の背中に隠れて誰にも見つからないように息をひそめていた。自分が小学生にあがって、兄の所属するクラブチームから入団を進められるも、すぐには入らず、1年生の終わりになって、やっとのことで仲良くなったコーチの説得でチームに入った。

入団してからはチームの練習のほかにチームメイトが通っていたスクールにも入り、文字通りサッカー漬けの日々だった。3年生ながら最上級生のカテゴリーに混ざり、試合にも出ていた。子どもながらに自分がサッカーで秀でていると無意識に自覚し始めたのはこの頃だろう。だが学年が上がり、チームの練習とは別に、”トレセン”と呼ばれるいわゆる地域ごとの選抜チームの活動が始まるようになり、僕のサッカー人生に陰りがさすようになる。

それまでチーム内では自分は、まさしく王様(実際にはふんぞりかえって偉そうにする性格ではなかったけれど)でいられた。けれど、地域のトレセンに選ばれるようになって、自分より上手くて、速くて、強い選手がいる事実を思い知らされた。自分は当時、第4地域トレセンという東京の7つに区分けされた選抜のうちのひとつに入っていたのだが、そのメンバーのなかには地域の選抜だけでなく、その上のカテゴリーにあたる東京都選抜や、関東、さらには全国選抜(通称ナショトレ)に選ばれた選手たちもいた。のちにJリーガーとなって、日本代表にも選ばれる選手もいた。

幸運にも、中学にあがる際に、東京の強豪クラブチームから声を掛けてもらい、入団することができた。入団テストには200人を超える参加者がいて、それだけでもそのチームの人気と実力が伺える。そして入団後、さっそく始まった練習試合でもスタメンに名を連ねて、順調とも見えるスタートを切った。

だが、ここでも自分はサッカーという熾烈な競争の世界で、自信を失っていく。いつのまにか試合に出る機会が減っていき、気づけばベンチを温める日々。チームは実力が揃ったメンバーがいて、全国大会にも出場した。チームメイトに「最初に勝のプレーを見た時に、なんだこいつは!まったくボールもとられないし、やけに大人びたプレーをするな」とある日言われたのを今でも覚えている。そのチームメイトは、ナショトレに選ばれるほどの実力の持ち主だったが、それがより一層、自分の現状と過去のギャップに悩む少年心にヒビを入れた。


繰り返される挫折

そして高校。地元の都立では全国大会出場経験もあるサッカー強豪校に5枠しかないサッカー推薦で入学するも、また中学と同じ道をたどる。総部員200名を超える大所帯のなかで、入学して間もない、新入生が上級生を差し置いて、あこがれの空色のユニフォームに身を包む。周りからは1年生ながらにしてAチームに所属し、一番最初にトップチームで試合に出た期待の新人として見られた。だが、一年の終わりに近づくにつれトップチームから降格、試合に出ることが少なくなり、ここでも、挫折を味わう。

学年があがり2年生になると、サッカーでの悔しさを補うかのように、僕は友達と遊ぶことなく、大学受験の勉強に明け暮れた。好きで、夢中でやり始めたサッカーが、やりたいことなのか、やらなきゃいけないことなのか、よく分からなくなっていた。

大学には猛勉強のかいあって、無事に志望校に合格。ただここでも、試練が訪れる。高校のサッカー部の監督は大学サッカーにもコネクションが強く、部員はあらかじめ、希望する大学のサッカー部を伝えておけば、ほぼ自動的にサッカー部にも入部できた。だが、大学に入学後、なぜかサッカー部の入部テストが行われ、そこで自分は残ることができず、結局なんのために大学に入ったのかと途方に暮れてしまう。

突然目の前が真っ暗になった。いままで当たり前にあったサッカーが、ある日突然できなくなる。情熱を燃やし続けてきた、あこがれのプロサッカー選手になるという夢、それが奪い取られた瞬間だった。と同時に心のなかは、プロにならないといけないんだという思いでいっぱいだった。

それ以外に自分に生きる道はないんだと


家族

そのころ僕の家族はみなそれぞれが必死に戦っていた。僕が物心つくころから両親は不仲で、よく喧嘩をしていて自分が仲裁に入ることもあった。自分が高校生のころ、母親が家から出ていった時期、父親が出ていった時期を経験した。

当時父親が借金を抱えていて、自分には父親がなぜ良いお給料をもらっていながら借金を抱えているのかという疑問があり、そこからくる父親への嫌悪感で、父とは一緒に時間を過ごしても会話はほとんどなかったし、自分から寄り添うという気持ちは皆無だった。

後に兄が語ってくれたのだが、父親が家から出ていくときの悲しそうな眼が今でも目に焼き付いていると。その当時の僕の頭のなかには父に対する疑念と嫌悪感しかなく、父が出ていく時には目も合わせず、ただただやり場のない怒りを抱え悶々としていた、

その後、兄は家族のためにと、身を粉にして働いてくれた。両親は離婚し、母親は国家資格を取り、鍼灸師として働きだした。父親は退職以前から体調を崩すことが多く、55歳にして早期退職という形で入社当時から変わらず一本で働いてきた銀行を辞めた。


孤独と新たな出会い

サッカー部のテストに落選したあと1か月は、夜も眠れず、悩む日々が続いた。誰かに相談することもできなかった。かといってこれといった解決策が見つかるわけでもなかった。

そんなとき、ネットでFTAという当時、横浜で活動していたプロサッカー選手養成アカデミーの存在を知る。大学をすぐさま休学し、惹きつけられるがままにFTAに入った。そしてそこで自分の人生を変える人たちとの出会うことになる。

そこには自分と同じように国内でプロサッカー選手になれなかった選手が海外でのチャンスを追い求めて、日々トレーニングに励んでいた。中にはすでに海外リーグでプロ契約をして日本に一時帰国してトレーニングに混ざっている選手もおり、刺激と新たな発見に満ちていた。

僕はFTAで「サッカー」を通じて新たな世界、価値観に触れ、文字通り自分の今までの人生とは異なる人生を歩みだした。そして期待と希望に溢れた当時20歳の僕はポーランドへ挑戦する。

だがそこに待ち受けていたのは厳しい現実だった。当時ポーランド1部リーグに所属するチームのセカンドチーム(5部)に契約が決まりそうだったが、ある練習試合の直前、もう来なくていいよと監督から告げられ、理由も分からず、次のチームを探さなければいけなくなった。結局6部の田舎のチームになんとか入ることができ、試合にも毎試合スタメンで出れるようになった。しかし、当時、お小遣い程度の給料を貰い、日本でいうアマチュアサッカーと変わらないレベルでプレーするのはキツイことの方が多かった。なにより海外での一人暮らしで英語も通じない、チームの練習は週2~3回で週の半分は誰とも話さず一人で過ごすことも多かったのは苦痛だった。

孤独と闘いながら、時間ばかりあるものだから、本当に「自分はこのままプロになって生活していけるのか」とか、「海外まで来たけれど本当に自分はサッカーが好きなのか」とかそもそも好きって何だろう?とかあらゆることに考えを巡らせ、よく拗らせた。そうだ、僕はサッカーが好きなんだ、そうだそうだと、無理やり自分を納得させた。それを僕は「覚悟」と呼んでいたけれど、なんと安っぽい「覚悟」だったんだろう。


強烈な理由

それが劇的に変わったのは、父親が癌になってもう余命が短いと分かってからだ。人生が劇的に変わった、というより変えざるを得なくなった。ポーランドでの半年間の挑戦を終え日本に帰国していた自分は、再びFTAにて練習に励んでいた。しかし、ポーランドで拗らせに拗らせた思いを抱えたままトレーニングしていた自分にはコーチや周りの選手から、厳しい言葉が飛んできた。今振り返ると、どれも愛あるアドバイスだったと分かるけれど、当時の自分にはそれを受け入れるだけの器も余裕もなかった。心を病み、練習にいくために朝起きるのが辛くてしょうがなかった。練習にいっても何一つ上手くいかず、周りから何かを言われるたびにビクつき、ミスする恐怖で足が動かなかった。

そんなとき、父親の妹(叔母さん)が兄に連絡してきた。当時、父親は福岡の実家に帰っていて、自分は東京に残って生活していたから、父親とは電話でたまに話すくらいしか機会がなかった。だが、その時にはもう父親の体調はかなり悪く、歩くのにさえ苦労するほどだった。僕はすぐさま福岡まで飛んだ。


車いすで自分の父親を病院へ送った日

福岡に着くなり、父親の様子が普通ではないことは一目で分かった。元々、頑固でもあり、家族に心配をかけないようにと一切弱音を吐かない父だったが、この時ばかりはなんで早く言ってくれなかったんだろうとどれほど思ったことか。叔母さんの説得に耳を傾けなかった父も息子の自分が着てやむなく、病院に検査にいくことを受け入れた。やせ細っていた父は自分で歩くこともままならず、タクシーを呼んで、病院の前から入口まで車いすで自分が移動させてあげた。この時、こんなにも早く自分の親を車いすに乗せる日が来るとは想像だにしていなかった。検査の結果、お腹に腫瘍が見つかり、即入院、検査結果を待つ間ですら、体調が悪く、椅子に座ることすらままならない父はベットを借りて横になっていた。

それから2週間ほど、福岡に残って父のお見舞いに通っていたが、いつまでも一人で自主練習を続けるわけにもいかず、東京に戻った。お見舞いに行った際に父は、自分の体調のことは一切話さず、次の海外挑戦はいつになりそうなんだ、次はどこの国にいくんだと、楽しみにしていた。別れ際に「父さんは大丈夫だから心配するな」と力を振り絞って僕の手を握りしめた。

この時、僕は父の願いを叶えてやりたいと心の底から思った。僕にはもう自分が育った実家もない、家族が再び4人揃うことはない。父親が元気になって元の生活に戻れる可能性も少ない。だからこそ、せめて父が生きている間に自分がプロサッカー選手になったと聞かせてやりたい。自分がここまで好きなことをやらせてもらった、何不自由なくやりたいことをやらせてくれた両親に恩返しがしたい。ただその思いで一杯だった。


唯一の大切なこと

僕はこれまでの人生、好きで始めたサッカーが半ば強制的にやらなければいけないものになっていたことや、立派に精神を拗らせていたことはもうどうでもよくなっていた。自分が貰ってきたたくさんの”愛”を今度は自分が与えられる人間になろう。そう思ってウルグアイに旅立った。

僕にはウルグアイ人の一部の選手の選手のように、プロにならなければ食っていけないということもないし、日本人の僕は娯楽や、仕事や、あらゆることに対しての選択肢(可能性)を、ウルグアイ人よりはるかに多く持っている。別にサッカーでなくとも、日本にいればなんとか食っていくことはできるだろうし、別に社会は僕がサッカーをしなかったとしても、何も変わらない。


「お前は一体、サッカーで何がしたいんだ」

それでも僕が地球の反対まで来て、挑戦を続けているのは、自分自身が誰で、どこから来て、そしてどこへ行くのか、それを証明したいからだ。ここまで「サッカー」を通じて、数多くの出会いがあった。そのなかで、たくさんの”愛”を貰ってきた。たくさんの”愛”に触れて、自分のなかに欠けていた何かが揃った。それは自分自身を”愛する”ことだった。今の自分を形作るたくさんの”愛”、それはどんな時も支えてきてくれた家族から貰った”愛”、FTAで出会ったコーチや仲間たちから貰った”愛”、ウルグアイに来て出会った当時の彼女とその家族から貰った”愛”、チームメイトから貰った”愛”、友達から貰った”愛”、その他多くの”愛”たち。

いま自分には、「サッカー」を通じて表現したいことや、実現したいことがある。

ここに来るまで、気が狂うほど、考え、涙し、そのたびに自分の表現したいことを思い返してきた。


日本社会になぜここまで”愛”が欠けているのか

日本のこの殺伐とした空気。毎年、何万という人が自殺し、精神を病む人で溢れている。サッカーは人生とよく言われるが、だとするならばなぜここまで日本のサッカーは退屈で、熱狂できる何かがないのだろうか。僕はヨーロッパ、南米、アメリカなど様々な大陸、国でサッカーを通じてその地の人々の暮らしを見て、肌で感じてきたが、どの国も今の日本よりずっと人々の顔に微笑みがあり、その表情には人間らしさが宿っていた。バス代すらない、新しい靴を買うお金もない、そんなチームメイトをたくさん見てきたが、誰もがサッカーをするとその目に輝きを取り戻す。彼らにはサッカーが生きる喜びであり、希望であり、誇りである。だから日本もそうなれと言いたいわけではない。そうなる必要もないし、そうなることも前提が違うから不可能だ。

僕はいま「サッカー」を通じて最高に熱狂している。それは「サッカー」だったからではなく、たくさんの”愛”を与えてくれた人たちがいるからだ。そして「サッカー」には、その”愛”を表現できるだけの力と可能性が溢れている。

たとえいくら物理的に豊かであろうと、日々の心の動きを感じられなければ熱狂することはできない。時に政治に利用され、利権に縛られ、差別を生み出すこともあるだろう。それでも僕は「サッカー」を通じて、幸せになって、”愛”を表現していきたい。


いまサッカーに関わる日本人は幸せだろうか。”愛”を感じているだろうか。もしもその感覚を失っているのなら、気が狂うほど自分に問うてみて欲しい。

お前は一体、サッカーで何がしたいんだ?


画像1

Twitter : @25shonakamura                                                                                  Instagram : @sho25nakamura


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?