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すぐに理解できないものが、年月を経て理解できたとき

「考えないで。体で覚えるの」。

茶道を習い始めたころ、何度も先生に言われた言葉。頭で理解しようとする癖は抜けず、体で覚えるまで半年近く時間がかかってしまった。

それでも、今日、2年ぶりにお点前をすると、自然と手が次の動きへ。体で覚えたことは長く離れていても、自然とできるものなんだと気づいた。

初めて市民講座に通ったのは、4年前。何も分からない状態で始めたから、最初は覚えることがたくさんあった。畳の歩き方、物の持ち方、お点前の順番......。一つひとつ覚えようと順番をなぞって頭で理解しようとした。でも、何度やっても覚えられず、次の所作を忘れることが多数。先生からは「体で覚えるのよ」と数えきれないほど指摘された。

それに加えて、「そこの角度はもう少し内側よ」「帛紗の端だけ浮かせて茶杓を抜いて」「そこは、1/3だけかけるのよ」と細かい動作を指摘された。当時は動作を覚えることに必死だったから、「なんでまだ始めたばかりなのに細かいところまで指摘するんだろう」と不満に思うこともあった。

でも、今はその理由がなんとなくわかる。最初から変な癖がつくと戻すのが大変だし、「神は細部に宿る」じゃないけど、細かい所作にこそ心が表れる。

確かに大まかに覚えてから細かい動作を正していけば、早く覚えられるのかもしれない。でも、茶道はきっと大まかに覚えることを是としてないし、先にざっくりと覚えてしまうと所作の美しさの及第点がぐっと下がる。だからこそ、最初から細部に心を配って美しさを求めるのだ。

映画『日日是好日』でこんな言葉が出てくる。

世の中には、「すぐにわかるもの」 と、「すぐにはわからないもの」の二種類がある。すぐにわかるものは、一度通り過ぎればそれでいい。けれど「 すぐにはわからないもの」は長い時間をかけて少しずつわかってくる。

理解できるときまで、そのままにしておく。でも、稽古を重ねることで、あるときふとストンと分かることがある。それが、今日だったのだ。

そういえば、最初は細かい動作を含めて、「なんで茶道ってこんな回りくどい動作をするんだろう」「なんでこのタイミングでこの動作をするんだろう」と疑問に思うことばかりだった。でも、今考えれば、懸垂を下げたからその手が自然と帛紗にかかるようになっていたり、茶杓を置いたら自然と水差しに手が向くようになっていたりと、所作の動きがつながっていることが多い。今日は、棚が塗ってある場合は塗料が剥がれないように柄杓を上向きで置くと聞き、茶道は案外合理的なんだと気づいた。

細かい動きも合理性もすべては、お客さまを敬い、最大限もてなすため。掛け軸を選ぶのも、お花を選ぶのも、細部の動作まで気を配るのも、無駄のない合理的な動きも、すべてはおもてなしの表れなのだ。

まだようやく半歩だけ踏み出した段階。これから少しずつできることを増やしていきたい。

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