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【境港】妖怪が消える前に

執筆日…2023/3/26
この旅行記は、筆者が2022年7月〜2023年10月にかけて日本一周していた際に執筆したものです。

 私はいつも妖怪を携えながら旅をしている。その妖怪は私のショルダーバッグに住んでいる。名前は目玉おやじ、鬼太郎の父である。
 2022年2月、2泊3日の山陰旅行で最終日に境港を訪れたのだが、そのとき目玉おやじのショルダーバッグに出会った。普段キャラクターものを手にすることはないのだが、その妙な親しみやすさにときめきを覚えてしまった。その心の動きに従って、私は持ち物に目玉おやじを迎え入れた。
 その後の日本一周の旅でも、他のショルダーバッグを試してみたのだが、サイズ感や使い勝手がとてもよかったので、結局常に目玉おやじに同伴してもらうことになった。

 2023年3月24日。初めての境港訪問から1年以上が経っていたが、今日も目玉おやじは境港じゅうにいた。電車のラッピング、駅の建物、道路脇の銅像――おまけに駅前ロータリーには先端が球形の街灯があり、その四つに一つには瞳が描かれている。したがって、夜の境港駅には光る目玉が浮かんでいることになる。
 目玉おやじやゲゲゲの鬼太郎キャラクターだけではなく、境港では実に妖怪の多様性が保たれている。境港駅のすぐ目の前から始まる水木しげるロードを歩けば、道の両側で様々な妖怪たちの銅像が出迎えてくれる。海坊主などの自然の中に住む妖怪もいれば、座敷わらしのように家の中に住む妖怪もいる。
 その水木しげるロードの果てに、水木しげる記念館が建っている。2023年3月〜2024年4月の期間は建て替え工事のため、今回は入場できなかったが、記念館前の広場にある目玉おやじと赤ん坊の鬼太郎の銅像は見ることができた。
 広場の端っこには、実はもう一つ銅像が建っている。それが「のんのんばあ」と少年時代の水木しげるである。のんのんばあとは、信心深い老婆を指す境港の方言で、それが水木少年にとっては「景山ふさ」という人だった。のんのんばあこと景山ふさは、水木少年に様々な妖怪の話を語って聞かせた。水木しげるにとって、この少年時代の怪談がゲゲゲの鬼太郎を描く上での原体験だったとも言えるだろう。

 前回水木しげる記念館を訪れた際、そこにも様々な妖怪が展示されていたが、その中に「べとべとさん」という妖怪がいた。まんまるの顔に大きな口だけがあり、顔についているのは小さな二本の足のみという姿に、私は不思議と可愛らしさを感じた。展示には解説がついていた。
「夜道を歩いていると、よくだれかがあとについてくるような気のすることがあるものだ。化け物なんかいないと思っていても、やはり怖くてふり向くこともできない。怖いのをがまんして進むと、冷や汗まで出てきて胸がドキドキしたりする。こんなときは、道のかたわらによって「べとべとさん、先へおこし」というと、ついてくる足音がしなくなるという。」
 たしかにこれは共感性の高い恐怖だと思う。それに対して具体的な対策まで教えてくれるとは、なんて親切な妖怪なのだろうか。少なくとも子供にとって、「夜道は危ないよ」という忠告より余程馴染みやすい存在である。
 妖怪にはこういった処世術や教訓を与えてくれるものが多い。自然の中に住む妖怪も、「むやみに海や山に近づきすぎると危ないよ」というメッセージを読み取ることができるし、家の中に住む妖怪も、怠惰を戒めるような存在になりがちである。自然に対する畏怖、生活や社会における規律正しさといったものを、「〇〇すると/しないとお化けが出るぞ」という形式で、妖怪は教えてくれる。

 しかし今、「のんのんばあ」はどれほどいるのだろうか。子供に対して怪談を語れる存在は、私たちの親世代に比べれば、間違いなく減っているのではないだろうか。その感覚の根拠は、方言の衰退である。使用頻度が比較的高い語彙(「せばな」などの挨拶、「〜さ行く」などの助詞)はまだ生き残っているが、その方言特有の名詞や動詞は、私たちの親世代で既にいわゆる「標準語」に置き換わりつつあり、私たち20代〜30代の世代ではなおのことその傾向が強い。核家族化が進み、ご年配の方との生活の濃度が下がれば、それ自体は自然なことであり、悪いことではない。
 しかしご年配の方と過ごす機会が減るということは、怪談を聞く機会がめっきりなくなるということでもある。妖怪の存在感が薄れていくと、いったい何が起こるのか――自然に対する警戒心や社会における規範意識の低下である。そうすると自然災害に巻き込まれるリスクが高まるだろう。社会的規範を守る意識の欠如により、損害賠償を請求され多大な負債が発生するケースも増えてきたように感じる。つまり、自分で自分を守れなくなっていくのである。
 日本人は無宗教ではなく神道である、と言われることはよくある。しかしなぜ日本文化圏で生きる人々の中に「自分は無宗教だ」という認識があるのかというと、その理由の一つは神道に明文化された教義がないからではないだろうか。ところが実際は社会的規範、あるいは世間一般という「生活に染み込んだ非体系的な教義」があり、その源流に口頭で伝承されてきた怪談がある。
 その怪談は、今まさに風前の灯火である。揺らめく小さな炎が消える前に、私たちは怪談を書き起こさなければならないのかもしれない。有名な怪談だけでなく、祖父母世代だけが知っているような口頭伝承を文字に残さなければ、妖怪は消えてしまう。消えてからでは――命を落としたり、一生かかっても払いきれない負債を背負ったりしてからでは、もう遅い。

 私はいつも妖怪を携えながら旅をしている。その妖怪は私の心の中に住んでいる。

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