コロナ萎縮に陥らないために感情を動かそう

ダイヤモンドプリンセス号からまだ5ヶ月ですが、日本を覆うこの重苦しい空気は全く晴れる気配はありません。それどころか、陽性判明者だったり、企業の赤字金額だったり、毎日のように数字を突きつけられていて、明るい話題は皆無です。

映画『シンドラーのリスト』(スティーブン・スピルバーグ、1993)にこんなシーンがありました。ナチスSSの兵士によって一列に並ばされたユダヤ人。誰がやったんだ的な詰問をされているが誰も何も言わない。兵士は手近なユダヤ人の頭を拳銃で打ち抜く。それでも固まってしまっているユダヤ人たち。その中のひとりの少年が機転を利かせて言った「やったのはその(今死んだばかりの)人です」。

このシーンを見て思いました。人間は、生死がかかった極限状態では、感情が消えてしまうのだと。単純に「わー!」と叫んでその場を逃げ出すようなことすらできなくなるのだと。

人間は、恐ろしさに直面して無感情になる。生きていく上で重要なのは感情の動きなのだ、と学びました。鬱や自死に至らないために、日常的に感情を動かしておくこと、老化を遅らせるために体を動かすのと同じように、いろいろなものを意識的に感じて味わうということを、やろうよ。

僕はかねがね思っているのですが、僕が生きてきた、たかだか50年程度に限ってみても、その歴史を十分に考えてみる余裕がないまま、ただ変化だけが急激に進みすぎているんじゃないか。という焦りのようなものがあります。

機会があるたびに過去を振り返り、先人たちが生きてきた歴史をもっともっと身近に感じたい、という欲求があり、限りある人生の時間に追い立てられて、せめてやれる範囲でやっていこう、と思いを新たにする日々です。

歴史を知るために大げさなことをせずとも、過去の良質な劇映画を見返してみる。そのことで新たな発見があり、感情が動くことを実感できる。そんな気持ちで、第二次世界大戦を題材にしたお勧め映画を紹介します。勿論『シンドラーのリスト』もそうなのですが、やはりイチオシはこれ。

『プライベート・ライアン』(スティーブン・スピルバーグ、1998)

僕が過去に書いた感想文を貼り付けておきます。理屈っぽいですが言いたいことは書きました。

付け加えると、ラストシーンでトム・ハンクスの瞳が燃え上がる映像演出があります。それは彼が人間ではない存在=天使である、という風に僕は捉えました。ゲームタイトルにもなっている”Call of Duty”、この”call”は本来的には天使を指しています。僕が訳すとしたら「天命」といったところでしょうか。この映画は第二次世界大戦における”Call of Duty”のお話です。

もう一つ、ちょっと変化球的に

『イングロリアス・バスターズ』(クウェンティン・タランティーノ、2009)

これも感想文を貼り付けておきますが、どちらの文章も映画を観終わった人向けになっていますのでご了承ください。

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プライベート・ライアン

あえて戦争映画という枠組みを除外して、任務を遂行するチームの物語としてみてみると、トム・ハンクスを中心としたキャラクター造形がいかに傑出しているかがわかる。

目標の達成を主眼とするドラマは、主人公とその周囲の人物がどのように描かれているかによって、大きく二つのタイプに分けられる。カリスマ性のあるヒーローが独力で牽引していく英雄譚と、プロ集団がそれぞれの持ち味を生かしつつ連携する群像劇である。語るべき物語が長大なものであれば、前者は神話の、後者は民話の領域に達するだろう。

神話では、固有の人物名が絶対的な意味を持つのに対し、民話は、ある特定の出来事内においてのみ人名が固有性を持つ。前者は、彼その人でしか成しえない偉業を語り、後者は、時と場合においては誰にでも当てはまるような普遍的な事柄を扱う。また、それぞれの物語において、仮にメッセージ性が感じ取れるとするなら、前者のそれは哲学的、運命論的であり、後者では実利的、教訓的なものになるだろう。

映画においては、そのストーリーの内容にもよるが、その作品の中に神話的あるいは民話的なニュアンスを見出すことができる。ことに叙事詩的スケールを持つ大作ではそれが顕著だ。例えばフォードとホークス。あるいはイーストウッドとスコセッシ。スピルバーグは、というか正確にはこの『プライベート・ライアン』は、民話的なアプローチの作品である。それは、現代ハリウッドのトップランカーの中では最もヒロイックではないトム・ハンクスを主役に起用したことからも明らかだ。彼のスクリーン・ペルソナは、中庸(だけ?)が魅力のハリソン・フォードと比較しても、さらに輪をかけて慎み深い。

ハンクスを指揮官とした八人の小隊は群像として描かれている。各人のキャラは立っているし、チーム内での対立あるいは相互理解もストーリーを彩る程度には存在しているが、それがメインのテーマにはなり得ない。いわば、どこにでもいる兵隊としてのルックスを持っているのだが、その任務においては極めて特殊である。ライアン二等兵を連れ帰るという唯一無二の目的を与えられたという点において、この群像は集団的に英雄として機能するのだ。

この物語構造の巧みさには唸るしかない。神話と民話の中点に留まることで、戦争映画の宿命ともいえる政治的社会的な束縛を免れて、抽象的な概念としての人間の生命のあり方への問いかけ、その問いかけそのものを表現することに成功している。なぜこの映画にはこんなことが成し得たのか。ハンクス小隊のキャラクター造形を眺めてみて、ふとあることに思いついた。

映画の序盤で描かれる、兵士の戦死を通知する手紙。軍の要職にある使者が、この手紙を携えて肉親の元を訪れる。この使者は説話的には死神である(肉親にとっては文字通り、だろうが)。であるなら、戦死を未然に防ぐべく遣わされたハンクス小隊は天使である。ここで思い出したのが『天国から来たチャンピオン』。あるいはそのオリジナルである『幽霊紐育を歩く』のほうがイメージとしては近いかもしれない。『幽霊紐育を歩く』は、天国の手違いにより50年早く召されてしまったボクサーが、天国の係官を引き連れ、この世に戻るべくあれこれ算段するコメディである。

『プライベート・ライアン』では、戦死通知を次々と打つタイピストルームのシーンがあるが、ここに「天国にて」とキャプションをつけてみたらどうだろう。映画の冒頭から終幕まで、すべて矛盾なく成立するようにできていることがわかる。ハンクス小隊はその不死性といい不可視性といい、天使としての片鱗をそのキャラクターに滲ませている。無論、戦争映画としてのリアリズムを阻害しない形で、である。戦闘シーンが過剰なまでに即物的であることのひとつの理由は、この演出の方向性にもあると思う。

スピルバーグは、神話と民話の中点からの抜け口として、彼の作品に共通して見られる夢想性を足がかりにしたのではないだろうか。クライマックスの戦闘は、使命を遂行するためだけに遣わされた彼らが、人知を超えた領域にまで達して消滅する、壮絶な破壊のプロセスである。

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イングロリアス・バスターズ

「キル・ビル」のヒロインを「バーン・アフター・リーディング」の脇役が取り囲む。主要人物の造形とその相関図において、ただメラニー・ロランだけに与えられた切実さが、彼女を特権的なヒロインのポジションに置いている。

今回、タランティーノの映画史講義はヨーロッパに題材を求めているのであろうが、私には引用を楽しむほどの知識はない。いずれにしろ優れた映画はどこか他の映画と似た部分を持つものだ。QTは天井知らずの力量をつけているので、彼の名が刻まれた新作としてただ心の底から楽しんだ。

キャスティングにも目を瞠るが、ここでは脚本と人物造形のおもしろさについて考えてみたい。第五章の展開について、私は最初はちょっと引っかかりを覚えた。ブラッド・ピット達とダイアン・クルーガーが映画館に赴く作戦の手はずである。明らかに疑わしいクルーガーが、なんの反撃の手段も持たず、クリストフ・ヴァルツの後をついていってしまう。残されたピットもやばい状況なのに、ロビーで愚鈍に立ち尽くしたまま捕らわれてしまう。

その前のイタリア語を絡めたコミカルな演出もあって、これはコメディと受け取っていいのか?と煙に巻かれた気持ちになったが、よくよく考えればこの爆殺計画はスーサイドミッションなのである。この面々は生きて帰ろうとは思ってはいない。なのに例えば「ワイルドバンチ」のクライマックスのような決死の目配せが交わされることはない。

この淡白な人物像からはヒロイズムが感じられない。キャラクターから感情を剥ぎ取ると、そこには外見と行為しか残らない。その行為を通じて、私たちはただ肉体が繰り出す造形の豊かさに興奮しながら、一方でそのキャラの魂とでもいうべき存在感を感じ取ることができる。

と、いうことを理解できたのは、偏に、唯一感情を表に出すことを許されたメラニー・ロランのキャラクターのお陰だった。彼女のキャラは、その登場シーンからしてこの映画のエモーションを一手に引き受けている。「キル・ビル」のユマ・サーマンもそのような存在だったが、仇役のすべてもまたキャラの立ったヒロイックな人物だった。作品世界が極めて劇画的な「キル・ビル」だからそれがよかった。

本作はその背景として史実を取り込んでいて、しかも究極存在とでもいうべきヒトラーが出てくるのだから、フィクションとして飛躍するには多かれ少なかれコメディやファンタジーの力を借りなければならないだろう。それは英雄譚とは真逆の人物造形を意味し、ヨーロッパ映画的な淡々とした写実性を持つ人間観察テイストでもよかったのかもしれないが、仕上がったものはやっぱり隅々までアメリカンだ。

オリヴェイラ「永遠の語らい」のごとく仏語、米語、英語、独語、伊語が飛び交い、これで露語があれば西欧映画史の主要言語が勢揃いだ、などとひとり喜んだりしたのだが、それにしてもロランが女優ではなく映画館主というのはやはりQTらしい。復讐の仕上げとしての最後通牒をフィルムを通して成し遂げるというおもしろさ。ミステリ作家ならば映写機を脱出のための時間稼ぎとして使うだろうし、舞台演出家が脚本を書いたら、そもそも生身のヒロインをステージ上に登場させたくなることだろう。しかしそんな小手先よりも遥かに優れた演出があの映写室にはあったのだった。