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夏物語 川上未映子 感想

主人公の夏子の一人語りで、彼女が小説家ということもあって、私小説的なエッセイのようにも読める。大きなテーマは生殖医療ではあるが、私はちょっと別の見かたをして楽しんだ。

夏子が書いた小説は、このように描写される。

「すべての短編のすべての登場人物が死者で、べつの世界でその死者たちがずっと死につづけています。そこでは死というものがいわゆる終わりとして描かれるのではなく、しかし再会や再生を意味するものでもありません。いいアイディアだったと思います。震災以降、多くの読者がある種の癒しとして受け止めて興奮したのも、この小説にとってはよいことだったと思います。でも、全部忘れてください」
そう言うと仙川さんはグラスの水をひとくち飲んだ。(後略)

文芸編集者の仙川は、その後、この小説はテーマではなく、文章の良さ、リズムに強い個性がある、と続ける。

この小説は別の登場人物にも読まれていく。

「電話番号どうも」遊佐リカは言った。「ねえ、小説読んだよ」
「わたしの?」わたしは驚いて言った。
「まだ一冊だけなんだね。とても面白かった。短編集ってことになってるけど、あれ長編だよね」

同業作家の遊佐からも絶賛され、その後、AIDを出自とする当事者の会で出会う逢沢も、大変気に入った様子だった。

それに先立ち、夏子は、出版物に掲載された逢沢のインタビュー記事で、自身の精子提供者を探しているという説明ののち、遺伝的な特徴として自らをこう語る文章を読む。

身長は百八十センチと大きめで、一重まぶたです。子どもの頃から長距離走が得意です。心当たりのあるかたは、いらっしゃいませんか。

まるで迷子になった犬猫を探す張り紙のようだ。その逢沢から、夏子はこのような質問をされる。

「子どもが欲しいというのは」逢沢さんが訊いた。「子どもを育てたいということ?それとも産みたいということなんだろうか。それとも、妊娠したいということなんだろうか」
「わたしもそれについては、できるだけ考えてみたつもりなんですけど」わたしは言った。「そのぜんぶが入った『会いたい』っていう気持ちなのかもしれません」
「会いたい」
逢沢さんは慎重にわたしの言葉をくりかえした。

逢沢が、自分の精子提供者と会いたいと思う気持ちと、この夏子の「会いたい」は同じなのか、違うのか。

「会いたい」という言葉は情緒的で、のちに善百合子からも、みんなそう言います、と看破されたりもする。この、言葉にすると陳腐になってしまう「会いたい」という感情がどのようなものなのか、それについて考える小説だと私は感じた。

そしてその、会うということは、死者に対してもこのように表現されている。

たった死んだくらいのことで、わたしはコミばあにも母にも、あれからもう、二十年以上も会っていないし、話してもいないのだ。わたしはとつぜん大きな声で叫びたいようなきもちになった。たった死んだくらいのことで!

親しい人との距離感は、長きにわたって持続していく。夏子のこの思いは、喪失感というより、親近感の再確認のように感じる。容易には生じない親しみの感情は、しかし獲得してしまえば、ずっと失われることはないのだろう。

この感覚を、夏子は、これから生まれる我が子に対しても抱いたのかもしれない。新たに生じるというよりは、ずっとそこにあったものとして。だから生むことを決意したのか、と思う。

このような思考のプロセスは、夏子が作中で長い期間にわたって書いているという小説と、鏡写しになっているような気がした。仙川は、その執筆中の作品について、書けないのだったらそこにその小説の心臓がある、簡単に書けてしまう小説に何の意味があるのか、と夏子に言うが、この「小説」を「子ども」に置き換えたらどうだろう。

小説を生み出すということ、その物語を生きる登場人物に会うということ。この作品は、『乳と卵』の人物のその後を描いたものだが、川上氏も、夏子や巻子や緑子に会いたくなったのではないだろうか。そしてまたいつか、彼女らが登場する小説を書いてくれそうな気がする。


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