ヘヴン 川上未映子 感想
この著者の本を初めて手に取った。「未」の字を持つ作家の名前が好きだ。
まずは技法上の特徴や物語の構成から考えることにする。
主人公の一人称で、主観視点である。名前も与えられておらず、会話文中では「君」と呼ばれるか、その人称代名詞を省略されることもある。「身体感覚」「比喩による抽象的な感情描写」による主観が多く、論理的な思考は限定的だ。その結果、主人公は環境に受動的で、どんな価値観を持つのか明確ではなく、意志に乏しい人物であるという印象を、まず最初に抱いた。
従って、読者は主人公のキャラクターに共感するよりも先に、いじめがもたらす身体的な痛みや、それによる心理的な悲しみに直面する。それがこの小説を痛いものにしている。
物語の前半は、クラスメイトのコジマとの関係性が描かれる。最初は手紙から始まり、会って会話をし、夏休みにはおでかけシーンもある。これらの場面においては主人公の思考は描かれているのだが、コジマの性格がかなり個性的であるため、「僕」は依然、消極的で受け身なイメージではある。それでもそれが刺激になって、コジマは僕のことを、僕はコジマのことをどう思っているんだろう、と自問自答する場面もあり、続いてマスターベーションのシーンになって、主人公の精神面と肉体面が成長過程にあることが知らされる。
夏休みが終わって新学期になってみると、コジマはコジマで内面の変化があったようで、非常階段での会話で自分の身の上話を長尺で話してみせるが、この辺りから彼女の奇妙さが出てくる。主人公の斜視を「好き」であり、そう思うのは「わたしだけだから、いいんじゃないか」といい、これが後に強い執着となって現れることになる。その後にコジマが書いた手紙も含めて、彼女の持つ思想が披露されることになるのだが、これについては後ほど検討する。
人間サッカーなる暴力シーンを経て、いじめ首謀者で影の実力者的な存在の百瀬と主人公の対話になる。百瀬の主張は一貫性があり、手堅く、この世の真理の一面を突いた鋭いものである反面、独善的で攻撃的であり、動物的な欲望のみを肯定していて、人間が持つ「他者への共感性」への認識がない。少年法を「犯罪にはならない」と言っていたりと、拡大解釈も含めて厨二病的な稚拙な主張なのだが、信念の力強さだけは伝わってくる。「百瀬は声に出して笑った」などの劇画的なサイコパス表現は気になるが、ひとつの「いじめ論」的なるものにはなっている。
主人公がいじめをどう考えるか、読者はどう感じるか。コジマの思想と百瀬の主義の板挟みに迫られる。「僕」がコジマに対して持つ友情は持続しているが、人間的な理解や共感は次第に薄れていく。コジマもまた変化しているのだ。
「百瀬のいじめ論」「変容するコジマ」「僕とコジマの友情の変化」というカードが配られて、終盤に意表をつく展開が待っていた。斜視の治療を医者から勧められたのだ。この意外性は鮮やかで、これまでの閉塞的な状況が一変する予感がした。「斜視を手術で治す」というカードが加わり、そして終盤のダイナミックなシーンとなる。この結末部分では、主人公を追うと同時に、コジマもまた大きな見せ場の主役となって、両者から目が離せなくなる。
読了後、感動が落ち着いた後に、いじめというテーマについて考えた。本書には、これについての現実的な教訓や、人間感情への考察が含まれているが、問題解決として、まずは適切な情報が必要であること、第三者とのコミュニケーションが状況を好転させうることがわかる。それは当事者が広い世界へと踏み出す勇気を持つことを意味している。
そのことは、ラスト、主人公が並木道の真ん中で見た光景として具象化されている。その写実的な描写の中に立つ主人公の姿に、これまで堪えていた大きな共感が一気に押し寄せてきたのだった。
コジマについて
コジマについての解釈も忘れてはならない。終盤で、主人公が斜視治療のことを伝えた彼女の反応や、雨の公園での映画的な集団いじめの行動を見るに当たって、ああこれは病的なのだな、と理解した。「それが僕がコジマを見た最後の姿になった」という一文から、その後の彼女の行く末として措置入院を想像してしまった。
当初、彼女の、いじめを受忍する態度からは、政治的な非暴力主義を連想したが、どうもそのような社会的なマインドは持っていないようだと気づき、DV被害者が抱く現実逃避の心理を考えた。
コジマは、おそらく唯一の話し相手として「僕」を選び、対人関係を限定させて「僕」への執着を見せている。その依存状態から生み出された思想に自らも絡め取られていくという負のスパイラルに陥ったようだ。
彼女がいじめられる原因は、経済的な苦境や両親の不仲といった家庭環境から生まれ、その悪循環が彼女の自我形成に影響して、歪んだ自己認識を持つようになったのではないだろうか。彼女のキャラクターを仔細に分析するにはより深い専門的な知識が必要だと感じたが、いじめ被害者が精神を病んだり、自殺してしまったりするそのプロセスの一例を、小説の形で表現した意義は大きいと思う。
伏線回収について
最後に、小ネタとして、仕込まれた小さな伏線回収を挙げて楽しもうと思う。
終盤、主人公が医師に斜視手術の費用を尋ねるシーン。
これは、美術館デートの準備をするシーン、
と対になっている。作品設定を1991年にしたのは、川上氏も当時中学2年生であり、自身の体験を反映させやすいことと同時に、斜視の手術が社会にあまり周知されていなかったということもありそうだ。
主人公が病院に行った時、百瀬の姿を発見したシーン。
なぜ百瀬が病院に来ているのかと疑問に感じた部分だが、その前フリがあった。冒頭、百瀬の初出シーンで、
という、主人公から見た、百瀬の中学一年の説明がある。何か、外からは見えにくい身体的な障害を抱えていたのだろうか。そのことが、百瀬の「いじめ論」にも影響を与えているかもしれない。
同じく病院の会話シーンで、百瀬はこう言っている。
この妹は既に登場していて、第1章の終わり(42ページ)、授業が終わっても教室に残っていた主人公は、ある女子生徒と遭遇する。
これが妹だ。彼女は、主人公がまだ目にしていない(そして結末で目にすることになる)美しさの象徴的な予兆であり、また、百瀬の人間性を別の角度から想像させる役割も成している。幻想的な映像を喚起させる印象深い場面だ。
もう一つ、百瀬との会話で、彼のセリフ、
この、天国と地獄の話は、以前に出てきたコジマとの会話、
これと対応している。百瀬とコジマが対比的な思想を持つこと、しかしコジマはさらにそれを「ヘヴン」と言い換えていること、そして彼女はその言い換えに固執していること。興味深い。
主人公は、地獄でもヘヴンでもない現実の道を自らの手で選び取った。しかしこの小説の題名が『ヘヴン』であることと、
の一文が、いじめというテーマとはまったく独立した、もうひとつのなにかを指し示しているように感じられた。