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光のとこにいてね 一穂ミチ 感想

去年の直木賞候補作だから試しに読んでみようというくらいのつもりだった。しかしこれが読ませること読ませること。強引な展開においても、そこに巧みな技法を重ねて力技で納得させてしまう。優れたテレビドラマを見ているような気にさせる。

作者の発想には映画の影響がありそうだ。特に第1章の「羽のところ」では、屈指の名シーンがいくつもでてくる。物語は、二人の主人公が交互に主観描写を担う二視点構造になっていて、最初は結珠の視点で始まる。ここで果遠との印象的な出会いが描かれる。映像作品のように記号論的な解釈をしてみた。

5階のベランダに出ていた果遠を発見した結珠は、「まるで、落ちておいでとでも言うように」「両手をめいっぱい伸ばした。」二人が置かれた場所の高低差は、結珠が感じたように落下のイメージを持ち、それは芸術表現において出産や誕生の象徴として使われる。さらに果遠が鼻血を出し、それが結珠の「おでこにぽつんと」当たる。これも、キリスト教的な洗礼を連想させる。結珠はミッション系の女子校に通っているという設定だ。この場面は、結珠と果遠の出会いによって生まれた新たな「二人の物語の誕生」を意味している。

エピソードの作り方が天才的だ。設定、舞台装置、進行、すべてが相まって読者の頭の中に強い映像記憶として刻まれる。もう一つの名場面は、公園で時計の読み方を教え教わるシーンだ。この時の果遠の心理は多くの読者の共感を呼び胸を打っただろう。

これらの映像的な場面は、それに読者の想像が加わって、一人一人にとっての「わたしの団地、わたしの公園」の情景として記憶に刻まれる。それが読んでいる途中にもふと思い出されるのだ。その時、自分もまた主人公と共に物語を生きているのだな、と思う。

本作品のテーマとして最も大きく感じられるのは「母と娘の関係性」である。「母親の育て方が子どもの人格形成に与える影響」を考察するという、具体的な課題があると思う。間違った子育てへの批判精神が作品の随所に感じられる。まずは、私が気になった第186回直木賞の選評をピックアップしてみる。

「二視点一人称を採用しているが、性格も生育環境もちがう二人の女性の精神性がなぜか同じなのである(浅田次郎)」

「冒頭の二人の少女の出会いは、秀逸であった。それぞれの母親のわけのわからない強烈さは、前半では不気味でさえある。しかし実相が判明してくると、この程度かと感じてしまうほどに、矮小化されてしまったと思う(北方謙三)」

「二人の人物の交互視点の場合、語り(つまり、二者の性格)にいかにさりげなく、しかし明確な差異を持たせるかがむずかしいなとも思えて、強くは押し切れなかった(三浦しをん)」

「『魂の双児』であった二人がめぐり合うのがテーマであろう。が、最後まで、『いったい何を欲して、いったいなにに飢えているのか』という疑問がぬぐえなかった(林真理子)」

「まったく異なる環境で育った女性二人の差異が、後半につれてあまりなくなっていき、同じ感覚、同じ価値観、同じ言葉になっていくのが、この小説の力を弱めてしまったように思う(角田光代)」

結珠と果遠の性格の差異は、経済的な裕福さや家柄が、教育や躾の差として現れているが、それだけではない。親から子への愛情のあり方が根本的に違う。二人の親はいずれも娘に愛情を示さないが、この理由が異なるので話を複雑にしている。

この「母から娘への愛情の欠如」は具体的にはどのような質のものであるのか。子供の目線から親の心理を押しはかるのは当事者性があるから難しい。「好かれていないのは私の落ち度なのか」などと考えてしまうからだ。主人公が二人いて、それぞれの母がいる。結珠が果遠を、果遠が結珠を思うことで、相手の母の影響も少しずつ見えてきて、比較して考えることで理解を進めることができる。

果遠の母の問題点は、自分自身が優先リストの一番上であること、である。子が親に求める「無償の愛」がない。でも他人を愛せないわけではない。果遠の母が、意地悪を承知でできるのは、感情は働いているということを示している。

結珠の母親は複雑だ。結珠は長期間に渡り深刻な悩みを抱えたはずである。冷たくされる理由を探してしまう子どもの心理に胸が痛む。結珠の母は、人間的な感情に乏しいのである。心がない。薄情者。刑務所の看守のような立ち位置で衣食住や教育を提供されても、それが家庭的な幸福感には繋がらない。

果遠が置かれた環境は、昭和的だとも言える。それぞれ自由勝手に振る舞う中で、果遠も放任されてしまったが、そのあからさまな放置は外部からもよく見え、本人も自覚しやすく、結果、外の世界に出ていく行動力が身についたし、その過程で構ってくれる他者とも巡り合えた。団地の隣人チサや、母の実家である地方の町の住人たち、地元民である夫の水人は、皆、昭和的な人情の持ち主だ。

一方、結珠は21世紀的ともいおうか、コミュニケーションに困難な内向きの周辺人物からは生気を感じるのが難しい。その中でも夫の藤野は、結珠と同じような家庭内の束縛にあいながら、早い段階で自分の置かれた状況を客観的に把握し独立心を持つことができていた。彼は医学部生だという設定だったから、発達心理学などの授業を通じて人間心理の理解を深めたのかもしれない。彼の存在は、読者に対して客観的な視点と情報をもたらしている。

私の感想では、結珠の母親の行為は精神的な児童虐待に見える。母親は結珠の人格を認識せず、人として対話もせずに一方的に自分の考えを強要する。心が冷たい人間は、身近で親しい人々の心を長期間にわたって深く傷つける。

結珠と果遠は、母親への葛藤を抱えている点で共通しており、お互いの存在は、その葛藤を解き明かすための力となっている。しかし結珠の強い抑圧感情と希薄な自己肯定感、および、果遠の、家族的な絆から放逐されたという疎外感、孤独感とは、まったくの別物であり、それは描き分けられていると感じた。長じてから、精神的な成長による他者への理解が同じベクトルになるのも自然だと思う。

別の視点から、気になる直木賞選評を拾ってみる。

「少女二人の出会いと交流だけが鮮やかで、家族や男性たちはみな顔がない。また、当の女二人の擬似恋愛的な交流のエピソードの一方で、人間の感情生活には立ち入らない(高村薫)」

「後半に無理が生じているのではないだろうか。二人を取り巻く人間関係があまり描かれていないことに原因がありそうだ。二人の夫や父親との関係も描かれていないので、彼女たちの関係性にリアリティが感じられない(桐野夏生)」

という批評は、次の北方謙三氏のコメントに集約されそうだ。

「この小説の評価は、結末の電車と車の疾走の部分に、共感できるかどうかで分かれるという気がした。私は、その部分が不要に浮いたと感じた」

諸氏は、候補作の文学的なリアリティに注目しているように思える。結末の、電車に乗って去る果遠を結珠が車で追うシーンには、アニメやテレビドラマのような、感情移入を促すわかりやすい大衆性がある(ここには冒頭の「鼻血のモチーフ」が出てくるので「新たな二人の関係性の誕生」を予感させる)。

この小説は全体として、わかりやすさ、読みやすさ、親しみやすさに配慮した、ライトな味付けがなされている。それは読者の好みの分かれるところではあるが、作者の力量不足を感じた箇所はなかった。昭和的な果遠の周囲の人物には「顔がある」と思ったし、結珠の関係者たちの「顔のなさ」は現代人の内向性や多様性として描けていると思った。

終盤の、結珠の母との対決は、小説のムードがガラッと変わって心配すらしてしまった。怒涛の展開の末にまたも訪れようとしている二人の人生の岐路で、気づけば周囲の登場人物たちが、結珠と果遠に花束を手渡しながら、一人また一人と舞台を降りていく。

これはハッピーエンドしかないでしょうと見守ると、しんみりした会話にユーモアが加わり、ピアノの音色が被さってきて、と油断していたら、してやられた。一服盛るという意外性。そしてまたしんみりして、果遠の口から「光のとこにいてね」というタイトルコールが漏れる。美人ヒロインの回想、独白。

いやいや北方先生、これは「フリ」でしょ。次の結珠の視点で「油断した。果遠ちゃんが嘘つきなのを失念していた。でも果遠ちゃんもミスをした。」これにはたたらを踏んでしまった。緊張と緩和、脱力、そして泣き笑いの結末へ向けて走る。この躍動感は、やっぱり、いい。

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