見出し画像

もっと悪い妻 桐野夏生 感想

勘違いによるシュールなコントやズレ漫才というものは、登場人物の思い込みが、噛み合わないコミュニケーションとして表に出てくるから笑える。そういうものは小説にもあって、僕が好きな作家でいえば奥田英朗さんなどはその名手だと思う。

『もっと悪い妻』もそうなのである。だが特徴的なのは、周辺描写を隠蔽し、相手の心理もわからないという徹底した描写スタイルである。読者にも全体像は見渡せず、主人公の視界だけを手がかりにして残りの部分を想像するしかない。

これがまた絶妙で、そんな深読みの想像をせずとも、ブラックコメディとして読めるものにはなっているのだ。でも明瞭なオチがなく、消化不良のモヤモヤとした読後感となる。

このモヤモヤは意図的、かつ野心的で、長年の桐野夏生ファンとしてはその挑戦を受けて立ちたい。というわけで、それぞれの短編作品を気の済むまで深読みして解釈したのが以下の感想文だ。

(この本を読もうと思っている方は、先に作品を読了することをお勧めします)

悪い妻

主人公は若い母親、千夏である。夫の倫司はRINJI'S STORE、略してリンストと呼ばれるインディーズバンドのヴォーカルである。千夏も元バンドマンで、二人は出来ちゃった結婚をしたという設定だ。2歳の娘がいる。

リンストは、ハードコア系のロックバンドのようだ。フロントマンの倫司と、リーダーでギタリストの安田のルックスが受けていて、いわゆる「顔ファン」がついている。この二人はバンドの方向性の考え方が違っていて、安田は売れることが最優先。倫司は、音楽そのものを追求したいタイプだと察せられる。バンドの人気を気にしていたら千夏との結婚を公表しなかっただろう。音楽性で勝負するからプライベートはどうでもいい、という考えなのだと思う。

千夏の、倫司への不満は、家事や育児をまったくやってくれない。ということのように見えて、その実、倫司だけバンドを続けていてずるい、自分もまたやりたい、というのが本音だろう。

ラストシーンの倫司と千夏、描かれていない二人の心理を想像するのがおもしろい。千夏は、再びライブハウスの熱気を感じて興奮しているのではないか。倫司は、あいつ何をしにきたんだと思うとともに、同じバンドマンとしてお手並み拝見のつもりか、と急に緊張したのかも。直後に披露する曲『俺のあの娘はバクダン娘』の出来を想像するとおかしくなってくる。

二人の共通言語はライブ。子どもを作ってはいけなかった。

武蔵野線

53歳の原田という男が主人公。タクシー運転手をしている。この作品の鍵は、序盤の幽霊目撃場面である。銀座からの客を乗せたまま、首都高環状線の千代田トンネルで、原田は自転車に乗った白髪の老人が走っているのを目撃する。抜きざまの横顔は別れた妻の父親に似ていた。現実感のなさに、あれは幽霊だったのではないか、と思う。

この、幽霊を見た見ないを寓意だとして解釈すると、原田の主観は事実なのか思い込みなのか、その全部が怪しいということになる。原田が好きな近所の商店店員みきちゃんにしても、離婚した元妻に衝動的にかけた電話での会話の内容にしても、原田の思い込みの強さが感じられる。

語り手として信用できない人物、原田。真面目で偏執的という、実はなかなか厄介な男なのかもしれない。キレたらやばい迷惑な中高年オジサン予備軍、というのは言い過ぎか。武蔵野線という陰気な響きが後を引く。

みなしご

妻を亡くした一人暮らしの高齢男性、倉田が主人公。アパート経営者だが質素である。愛犬ハッチの世話だけが生きがいだ。取り壊し予定のアパートに一人残る、中年の森村という女性との、情のこもった交流が描かれる。

この話は、倉田の中に、読者には明かされない感情が動いている、と解釈した。いかに善人であっても、うまい具合にことを運んであわよくば思い描いた生活を叶えたいという欲望があるのは自然なことだ。その過程で損切りをしたり、打算を働かせたりと、自分に都合よく振る舞うのも当然といえば当然、何も責められるところはない。

森村の、40代になる息子は、突然どこから現れたのか。文章を読んだ限りでは、コンビニ建設のために現場に来た業者のような気がしたが、この出会いは森村にとっては歓喜、倉田にとっては自虐の感情となって表れた。情けは人の為ならず、とはどういう意味なんだろうと考えてしまった。

残念

これはオフィスドラマとして読むとおもしろいので、舞台設定となる会社について解釈をする。

ユネシックスという、生理用品の生産販売をしている企業だ。登場人物たちは、この会社の社員、もしくは元社員という設定。主人公の佐知子42歳は、職場結婚をしたのち退職、今は専業主婦である。夫の雅司は営業課長。二人は世田谷の二世帯住宅に住んでいる。もう一人の登場人物、櫛谷は、佐知子より少し後輩だが今や営業本部長だ。海外赴任中に結婚した妻とは、どうもうまくいっていないらしい。

この作品でのすれ違いは、社会通念上の企業イメージと関係している。その商品の性質上、ユネシックスには、女性の健康と生活の質の向上に貢献します、という社是があるだろう。きっとジェンダー教育にも熱心で、社内セミナーなどでの啓発活動も活発だと思う。

佐知子は、自分が社員の頃のことを回想する。

佐知子は、社内の男性に人気があった。いや、社内に限らず、通勤途中でも、男たちの多くが感嘆、もしくは好色な視線を寄越したものである。それなのに、誰も声をかけてこなかったのはどうしてだろう。自分でも不思議だった。自分は手の届かない、高嶺の花だと思われたのだろうか。

単行本83ページ

このような社風の会社において、社員が職場恋愛に敏感になるのは当然だろう。社内でセクハラ講義もあっただろうから、男性社員は迂闊には女性社員には声をかけられない。下手をして噂になったら出世にも響くし、だったら恋人選びは社外で、となるのは当たり前。そのことに鈍感な佐知子はバブル期マインドを引きずった旧人類である。雅司も同類で、トップダウン型のゴリ押しで汗をかく仕事人で、他人の話をよく聞かない。お似合いの夫婦のようだが若さを持て余す佐知子は不満だ。生理の血の迷いもあるのか、妄想を膨らませてしまう。

在職中、佐知子が気になった若手社員がいた。イケメンで有能な櫛谷である。寿退社を控えたある日、エレベーターに相乗った時の会話が尻切れになっていた。あれは櫛谷からの、結婚を翻意してくれとのお願いだったのではないか。当時、櫛谷がこの結婚に関して「残念だ」と雅司に言っていたという。俄然、色めき立つ佐知子。

この「残念だ」の意味にミステリー的な面白さがある。佐知子の解釈では、「あなたが他の男と結婚するのは残念だ、僕もアプローチしようと思っていたのに」である。

櫛谷の真意は、上に説明したようなサブテキストを解釈することで導き出される。彼の優秀さは、資材部からマレーシアやロンドンの長期海外赴任、後には本社勤務で営業本部長という経歴が示すように、経営者マインドの豊富な筆頭役員候補、という人材だ。彼が見ていた佐知子は、これからの我が社の経営戦略に鑑みて、ジェンダーバランスの旗振り役として可能性あり、と映ったのではないだろうか。機会があればそういう話をしてみたかったが、あっさり寿退社して家庭におさまってしまった。それが「残念だ」。

櫛谷がマレーシア赴任中に出会い、結婚したという女性も、きっと仕事に対して志が高い人物だったのだろう。お互い、仕事と家庭の両立が難しいから夫婦生活がうまくいっていないと解釈できる。だったら、古い専業主婦タイプの女性である佐知子とは、意外とうまくいくかもしれない。彼女の無理筋の妄想に現実味も出てくるが、実際問題、ハードルは高そうだ。

オールドボーイズ

これはわかりやすいし(比較的)嫌味がない。伴侶を亡くした人間が、どのように相手を想い、自分の気持ちを慰めるか、という話である。主人公の女性、亜美は、儀式的な法事の形にはこだわらず、あくまで自分の内面を通じて亡き夫と静かに対話をする。一方、会社のOBである下條も妻に先立たれたが、これまでの感謝をエッセイにまとめ、自費出版として形に残す。

『ジャカランダの花咲く頃、きみは』というタイトルのその本は意外と立派な装丁で、筆致も素直でなかなか読ませる内容だった。こうした追悼のやりかたは自分の発想にはなかった、私は夫に冷たかったのかもしれない、と内省する亜美。1週間後、別便で届いた手紙には「気に入ってくださったら三千円のお振込を」。苦笑いして破り捨てた。

確かに苦笑いだよなぁと思う。下條にはもちろん押し売りの意識はないし、終始丁寧な物腰だ。でもそのタイトルの本音は『ジャカランダの花咲く頃、ぼくは』であるのだろう。回顧録を書くという行為は、男性的な生理なのだと思った。

もっと悪い妻

この作品は寓意性が高いので解釈が難しかった。物語そのままに、ヒロイン摩耶の夫婦生活をあれこれ想像するだけでも楽しい。要は、不倫という言葉を一切使わずに不倫関係を作り上げ、それが理想的な人間関係であるように描いている。確かにそれは男女の関係性の理想型の一つではあるのだろうが、社会環境や世間体の影響は考慮せざるを得ない。その点が登場人物たちの考えに現れている。

翔太郎は摩耶の元カレで、再会し意気投合して再び恋人関係に。彼も結婚していて子供もいる。摩耶の夫の新は、翔太郎の存在を黙認しつつ、離婚はしないよと釘を刺す。

摩耶にとってこの二人は、心の底から大事に思える人間で、自分が生きていく上で絶対に必要な男たちだ、という強い信念を持っている。十分に思考し、自分の感情にも嘘をつかずに出した真実の思いである。

翔太郎の認識は違う。奥さんは奥さん、摩耶は摩耶だというその本音は、家族と愛人は別、ということだろう。だからこの関係が妻にバレるとまずい、と警戒している。

確かに摩耶のような考えは、他人には理解してもらえにくいだろう。ではなぜ新が寛容なのかというと、そこにはまったく別の論理が働いていた。それはペットの話に表れる。

この家族はジンジャーというオスの犬を飼っているが、娘から、貰い手のいないメスの子猫も飼って欲しい、とせがまれる。摩耶は、ジンジャーが嫌がることを心配するが、新はそんなの平気だろう、と猫を迎えることに同意した。体が小さいだろうから、ジンジャー=神社からの連想で、小さい神社で「ホコラ」と名前まで決めてしまった。

新は、何事もバランスで考える人間なのだ。ジェンダーバランスや多様性という概念を、その中身は捨て置いて、社会からの要請だからということで従順に受け入れている。

非難されるほどの態度ではないが、ちょっと滑稽ではある。摩耶のことも、多様な生き方というような理解の仕方をしているのだろう。その滑稽さを犬と猫で表現したラストは秀逸だ。

(追記)

少し経ってから気づいたことがあったので備忘録として。

摩耶の側から見た人間関係は、気持ちの上での繋がりである。これは恋愛といっていいだろう。

新や翔太郎は、摩耶のことが好きなのは疑わないとしても、婚姻という制度を念頭においた関係性であると思う。配偶者として。あるいは、婚姻外の妾として。いずれも、「契約」という考え方は外せない。

エモーションとコミットメント、そのあたりが登場人物の考え方の違いになっている。

最近の若年層は、コミットメントベースの「恋愛」をしているらしい。好きか嫌いかというより、お互いがお互いを彼氏彼女と認識して、そのルールの上で付き合うという感じだろうか。これはある種の現代版の「お見合い」のようなものなのか、あるいはサブスクを契約するようなイメージに近いのか。

そんな題材の小説が読んでみたい、と思った。

この記事が参加している募集

読書感想文