恋は決闘です

かのロマン・ロランの名言から今日の話は始まる。


恋愛ほど、1番でなければ意味がないものはない。
いや、まあ1番でなくても成立する関係性もあるだろうが、それは面白すぎる話なので今話題にすべきことではない。
とにかく、恋愛は1番を競う闘いで、「みんな違ってみんないい」といった小賢しい言葉が一切通用しないからこそ、裸一貫の自分をぶつける価値があるものだと俺は思う。


俺は闘わずして勝ちを得ようとする恋愛観が嫌いだ。
好きな人のためにどれだけ自分を賭して闘っているかがその人の覚悟であり、生き様である。
たとえそれが意地汚くて泥臭いものであっても、1番になりたいという気持ちは誇っていいものだ。
だからつまらない言葉で自分の気持ちを否定して欲しくないし、それは好意を持つ人へも失礼だと思うのである。


決闘を挑むとして、俺が1番大切なことだと思うのは、決闘までにどれだけ自分を高めることができるかということだ。

たとえば外見を良くするためにダイエットするでもいい。お洒落を覚える、会話のテクニックを磨くとか色々あるだろう。
趣味を増やす、お金を稼ぐ、カッコいい車に乗る。これらはバカにされるかもしれないが、どれも無駄ではない。

相手を好きな分、相手を振り向かせるために自分を高めることは何の無駄もない努力なのである。
つまらない言い訳に時間を使うくらいなら、自分を高めるために時間を費やすべきだと思う。

ごろーがごろーになる10年の間にも、俺はたくさんの決闘で負けてきて、人から嘲笑されることなんて数知れず、それ以上に嫌われたり憎まれたことだって何度もある。
でも、だからと言って負けることを恐れて決闘をしない選択肢だけはとりたくないし、決闘することの意味を理解しているつもりでいる。

観客など笑わせておけばいい。
奴らは決闘すら選択しない落伍者だ。
自分が勝つ可能性を1%も信用できなかった人間が、自分の勝ちを信じて闘う人間の何を笑うことができるだろう。
もしあなたが負けたとしても、あなたは敗北者にはなるが落伍者ではない。
自分を信じて闘うことのできた挑戦者なのである。

もちろん、こんな自己啓発セミナーのような謎の自信に満ちた文章を並べ立てても、現実では決闘に勝つことの方が圧倒的に少ない。
決闘に負けた時、あなたは恐らく自分のしてきた努力や想いに、大いに裏切られることになる。
しばらくは立ち直れないだろうし、それまで励ましてくれていた友人関係すらも崩壊する状況に至るかもしれない。
でも、あなたは決闘することで良くも悪くもその関係性に終止符を打つことができた。
だからそこから先は前に進む以外の道はない。
もう後戻りすることも、延々と同じ道を回り続けることはない。
また新しい道を自分で進むことができるのだ。


なんて、ね。

だが、正直に言えば俺はこういう考え方の人間である。
冷めた目で恋愛などと見くびっていないし、人生を賭ける価値はあるものだと考えている。
そのほとんどに負けてきたけれども、手にした僅かな勝利から得たこともある。
紛れもなく恋は決闘であり、闘って闘って、何度負けても人はまた立ち上がり、次の恋をするのである。


コンカフェで言うと、この恋の法則はアンフェアでいつも一方的である。
土下座しなければ土俵にすら立てない恋など数知れず、常にキャストの顔色を伺い、好かれるというよりは嫌われないように立ち振る舞うのが精一杯……なんてことばかり。
キャストの発した気まぐれの一言で人生を狂わされた客など星の数ほどいて、卒業までにと思っていた恋の道のりのほとんどは妄想と思い込みで徒労に終わる。
だから理屈の上では、俺はキャストなんて大嫌いだし、思わせぶりな言動で惑わせるなら、金は払うから最初から適度な距離感で接しろと思うのだ。


ごろーというキャラクターを纏ってそこそこの年月が経つが、キャストの考える好意というものの形が少しずつ見えてきた近頃である。

口から出まかせのように聞こえそうだが、俺は何時何処であってもキャストという面で言えばキャストは全員好きだった。
感謝しているし、自分が可能なところで応援したり、困ったことがあれば可能なところまで相談には乗る。
大切にしたいと思うし、結構優先順位は高くしているつもりだ。

だけど、それが1人を決めなければならない「好き」になった時、これは果たしてどうなのかと俺は思う。
それは本当に魔法の世界で考えるべきことなのだろうか。
それを決めることに、どれだけの意味や価値があるのだろうか。
その価値を、キャストは自分に与えてくれるだろうか?

同じように、これはキャスト自身にも問いたいのだ。
自分が見せている態度や言葉、そういった一つ一つが他人にどう伝わるのか考えたことはあるだろうか。
おそらくは無自覚に、あるいはわざとかもしれないが、薄っぺらい魔法の言葉にのせて紛らわしている真実がいくつもあるはずだ。
それが仕事だとして、本当にそれが正しいかどうかを迷うことがあるだろう。

もし、ごろーというキャラクターを見ていて同じような苛立ちを感じるキャストがいるとすれば、俺はそんなキャストの人間性を愛していたい。
そして今一度「好き」や「愛」という言葉の持つ意味一つ一つを考え、他人にそれがどう伝わるかということを考えてみて欲しい。
自分に好意を持っている人たちに向けるべき本当の言葉や気持ちを整理して欲しいと思うのだ。


俺は、我々客が大層に見せびらかす愛というものの浅はかさを知っているし、同時にキャストの考える愛の身勝手さも知っている。
魔法の世界を利用して大仰に語られる愛など俺は何一つ信じてはないし、唯一信じるとすればそれは魔法の世界を揺るがす行動だけである。
その言葉通りの行動を可能な限り選択することで、今の俺はごろーというキャラクターを作り上げてきた。

何を信じるのか、何を偽るのか。
魔法の世界に一歩踏み出した瞬間から、自分自身にもその魔法は及んでいる。
その魔法の本当の優しさと残酷さを、出来れば知らぬうちに退場して欲しいし、知り得たならその魔法のあり方を考えて欲しいとも思う。

別に正直にいろ、とは言わない。
ただ常に気持ちの在り方と伝え方は考えた方がいいと俺は思うのだ。
でなければ、いつか本当に伝えるべき気持ちや言葉が陳腐であやふやなものになる。
自分の言葉は自分の行動でしか証明できないのだ。

コンカフェの世界に足を突っ込んで10年以上経つ。
おそらく界隈にいる多くの人が経験してたどり着いている悟りを開いたような時期もあれば拗らせて尖ってしまった時期もある。
同じような心境を何周も経て、たくさんのことを見て経験し、それでもたどり着いたところはこんな当たり前の正論でしかなかった。

もちろんこれが完成形とは言わない。
これからも少しずつ変わっていくことがあるだろう。
でも何となくだが、心の在り方としてたどり着いた場所はここだと思うのである。

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