さよならを教えて

そういうシーズンである。
全国各地のコンカフェフリークたちは、自分たちの推しが卒業するかしないかをハラハラしながら待ち構えている。
それがどんな思いかは今の俺にはもうよくわからんが、まあ別れの季節ではある。
今日はそんなお話。


コンカフェで言う卒業って何やろな、と俺はいつも思う。
卒業っつーことは入学があるわけで、コンカフェに入ったキャストは入学してんのかね。

するとコンカフェは学校?みたいな場所で、そこでキャスト?が何かを学んで勉強する場所ってことになる。

かく言う我々客は、それに対してどんな存在かというと、決して教員の立場ではない。
もしそれを声高に叫ぶバカがいれば、そいつはおそらく反面教師として学ぶべき面がたくさんあるだろう。
俺のような客も結局はキャストから学ぶことが多くあって、それはそれで日々面白さと興味深さを感じる。

ま、用語に関するエトセトラはともかく、ちゃんと卒業するというのであれば、それはめでたいことだなと素直に思うのである。

俺自身も今まで数多くのキャストを見送ってきたし、逆に見送られてきた(別にイベントなんかしてないけど)。
そしてそのほとんどとは2度と会うこともなかったし、今後会うこともまずないだろう。
だとして、後悔があるかというとそうではなく、今更に思うのは「どっかで元気にやってればそれでいい」というくらいのものである。
それまでに必要なことは伝えてきたし、十分に言葉は交わしてきた。
それが一番大切なことなんじゃないかなと思う。

コンカフェに関して言えば、俺はキャストがいつ居なくなっても、または俺自身が居なくなっても、後悔がないようにその時その時を楽しむよう心掛けている。
ちゃんと話したいことはその場その場で解決するようにしているし、後にも先にもわだかまりが残らないようにする努力はしてきているつもりだ(俺はな)。
そうしていれば別に卒業がチラついても「おめでとう」のその一言で全ての気持ちが表現できるし、「ありがとう」の言葉でその気持ちを汲むことができる。
話し足りないとか、伝えるべき気持ちがあったとか、そもそも卒業が囁かれる頃には全て手遅れなのである。
これはキャストにも覚えておいて欲しい。

言葉というのは思うより無力なものだ。
例えば卒業するキャストが最後に素晴らしいスピーチをしたとして、残念ながら俺はその言葉を一欠片も記憶に留めていたことはない。
それはその場にいる全員に届けた言葉であって、別に俺に向けられた言葉ではないからな。

そのキャストに対する気持ちを他の客やキャストと共有するつもりはなく、俺の記憶の中とそのキャストの記憶の中で一瞬くらいの痕跡として残ればそれで構わない。
ふとした時にそれを思い出して、「ああ。そういえばこんなキャストもいたよな」と懐かしむくらいがちょうどいい距離感だ。
どんなに足掻いたところでメイド喫茶でそのキャストと共有した時間が延々と続くことはなく、いつか終わりはくるのだから、相応の気持ちでいつも接しているべきだと思うのだ。
そしてその記憶が懐かしく思えるように、出来るだけ後悔は少なく過ごした方がいいよねって思う。

コンカフェキャストとご主人様っていうのは、ルールに抵触しなければどこまで行ってもキャストと客の関係でしかない。
そこにいる時だけほんの少し時間を共有する「生徒」であって、その先はみんなバラバラの道を歩むのである。
だからこそ楽しい時間になるし、記憶の中では綺麗なままでいるのだ。


あー……。
卒業にまつわるガチ恋の話が聞きたいって?


キャストが卒業するまでに何とかできなかったガチ恋が、卒業で何とかなるわけねーだろ。
そういう盟約が確固たるものとして存在してるならともかく、望みは極めて薄いので諦めてくださいと俺は忠告しておく。
卒業贈呈品に紛れて挟まれたメモ一つ一つを打ち上げのネタにされて紙ヒコーキにされるくらいなら、恥を偲んでイベントで切腹した方が幾分かマシだろう。
介錯はキャストにしてもらえばいい。


ま、ともかくとして卒業のシーズンである。
俺が素直に「おめでとう」と言えるように、そして二度と卒業したキャストがその場所に戻ることがないように、後悔なくコンカフェライフを楽しみたいと思っている。

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