酒母の話

日本酒の作り方は一見すると非常に複雑に見えます。

まず、米と水と麹を小さめのタンクに仕込み、酵母を添加して培養します(酵母を添加しない場合もある)。これが酒母と呼ばれる酒のスターターになるものです。

酒母ができたら一回りくらい大きなタンクに移して、酒母に対して大体倍量くらいの米麹水を仕込みます。これを初添(現場では大体略して添とよぶ)と呼びます。

初添を行ってから一日間置いて酵母の増殖を待ち(踊り期間とよぶ。ダンスではなく階段の踊り場の意味です)、さらに大きなタンクに移動させます。

踊りをとった翌日に、初添の倍量くらいの米麹水を仕込みます。これが仲添(だいたい仲と呼んでます)です。

さらに、仲添の翌日に初添の三倍量くらいの米麹水を仕込みます。これが留添(通称留)です。酒母の仕込みを入れると四回仕込んでいることになりますが、普通は酒母の回数は数えずに、本段の三回を数えて「三段仕込み」などと呼んだりします。

ちょっと勉強したことがある人なら同意してもらえるかもしれませんが、「なんでわざわざ酒母を立てるの? 」「なんで添仲留の三段に分けて仕込むの? 」「どうせ米と麹と水だけで仕込むんだから、そんな面倒なことをやらなくてもいっぺんに仕込めばいいじゃん」とか思いませんでしたか?

実のところ、「米と麹と水」をいれるだけでも、酒ができないわけではないんですよね。教科書をひもといたときに、最初に書かれている「平行複発酵」とか「三段仕込み」というのは、ある程度の規模でお酒を安全に効率良く造るために産み出された技術なのです。

これらの技術全てを一口で説明するのは難しいので、今回はとりあえず酒母(モトとも呼びます)の役割を説明したいと思います。

そもそも日本酒(清酒)は二つの菌の作用によって造られています。

ひとつは麹カビ。米に含まれるデンプンを糖化し、糖分に変える役割を果たしています。

もうひとつが酵母菌です。麹が作った糖分をアルコールに変えてお酒にします。

日本酒の仕込みは一見すると、ただ米と水と麹を複数回に渡って仕込んでいるだけのようにも見えます。ただし、ただ水と米と麹を入れただけの状態というのは非常に雑菌汚染の危険性が高いのです。

麹が分解した糖分(やアミノ酸やビタミン)を酵母だけが独占してくれたら話は簡単なのですが、仕込みの最中に混入する他の雑菌も、これらの栄養素を好むので、なんの手段もとらずにいると酵母以外の雑菌ばかりが繁殖してしまったり、酵母が増えたとしても雑菌の作用で味や香りが悪くなってしまう恐れがあります。

そうならないために、酵母を純粋培養に近い形で増殖させておくのが酒母の役割であり、それをベースに他の雑菌の増殖よりも常に酵母の増殖が上回っている状態で拡大培養させるのが三段仕込みの意義である(まあ若干単純化した説明ではありますが)と、言ってしまっても構わないと思います。

では、具体的にはどのようにして酒母を作っているのか、という話になります。

そもそも清酒酵母には他の菌に比べて「比較的低温でも増殖が可能」であり「酸性の環境に強く」そして「ある程度の濃度のアルコールに耐えられる」という特徴があります。ざっくり言うと、この特徴を生かして「酸性で低温の状態において清酒酵母のみを増殖させたもの」が酒母です。

たまに酒のラベルに書いている「生もと」とか「山廃」とか「菩提もと」「水もと」というのは、酵母が増殖する前に乳酸菌を培養することで乳酸を作らせて、酸性状態を作り出しています。これらは昔ながらの作り方で「生もと系」などと総称されていますが、厳密に言うと「生もと」「山廃」と「菩提もと(水もと)」は作り方の仕組みも目的も異なるので、分けて考えた方が理解しやすいとは思います。

一方、わざわざ乳酸菌を培養するのではなく、高純度の乳酸を直接添加した方が扱いやすいし簡単に手早くできる、という発想から、工業的に生産された乳酸を添加して清酒酵母を純粋(に近い形で)培養する酒母の作り方もあります。いわゆる速醸系と呼ばれる酒母の作り方で、速醸もととか、中温速醸とか高温糖化といった種類があります。具体的なパーセンテージはわかりませんが、現代造られている酒のほとんどは速醸系だと思われます。

生もとの具体的な作り方だとか、生もとを作る際に生じる微生物の変遷だとか、生もと系と速醸系のそれぞれの味の特徴とか、そういった一般的に見て有意義な情報は、既に方々で紹介されているので、以下では世の中の99%の人にとってどうでも良いと思われるであろう、「そもそも酒母ってなんなのか」ということについて考えて書いていきたいと思います。

先に「生もと系と総称されるが、生もと山廃と、菩提もと(水もと)は区別して考えた方がわかりやすい」と書きました。

歴史的に見ると、菩提もと(水もと)の方が歴史が古く、中国から伝来した酒造技術の影響を色濃く受けています。

作り方を簡単に説明します。まず酒母の仕込みに使う米を良く洗い、その一部を炊きます。そして、炊いた米と残りの米を水に浸けます。三日ほど浸けておくと乳酸菌によって乳酸発酵が行われ、浸けているごはんと水と米が酸っぱくなってきます。この酸っぱくなった水を仕込み水に使い、浸けていた酸っぱい米を蒸して、麹、最初に水に浸けていた酸っぱいご飯と共に仕込みます。

乳酸発酵によって酸性状態になっているので、清酒酵母以外の菌が繁殖しにくく、空気中や麹の中についていた酵母が増殖することで、酒母としての働きを果たす、らしいです。

僕は実際に菩提もとの造りをみたことがないので伝聞ですが、この菩提もとってものすごく強烈な香りがするそうです。確かに、炊いた米と洗った米を水に三日もつけておいたら、さぞかし臭いも出るだろうな、と思います。菩提もとの別名に「腐れもと」という呼び名もあるそうで、最近はいろんな技術の進歩もあって減ってきた気もしますが、「菩提もと」とか「水もと」で造った酒には特有の(良く言えば)ヨーグルトのような香りが良く出ている印象があります。

もともとこの菩提もとという名は、奈良のお寺で造られていた「菩提泉」というお酒をルーツにしています。中世のお寺は中国からの文化や技術を真っ先に受け取る場所だったので、この菩提泉も中国の酒造りを導入した最新技術だったのでしょう。当初は(中国でもそうだったみたいですが)これを酒母として使うのではなく、そのままお酒として飲んでいたようです。

ただし、相当飲みにくいものであったでしょうし、一度に作れる量も限られてくるので、そのうちこれを増殖した酵母を拡大培養するためのベース、つまり酒母として使われるようになったようです。

菩提もとの特徴は、主に夏場や春先などの暖かい時期に造られていた、というところにあります。今では日本酒造りというと冬場に造っているイメージが強いかと思われます。酒造りが冬場に行われるようになったのには様々な理由があるのですが、品質や貯蔵性、生産効率を考えなければ造れないわけではありません。というか、中世近世では火入れ技術や保管技術に限度があったので、冬場に酒をまとめて造って、年間通して売りさばく、という形がとりにくかったのかもしれません。江戸時代の元禄ごろに書かれた技術書には、菩提もとで造った酒は余り高く売れないし日持ちもしないけど、酒の無い時期なので売れる、みたいなやや否定的な記述もされています。


一方、生もとは江戸時代の元禄時代に完成した手法です。どこをどう見ても菩提もととは違う技術なので、乳酸菌を利用して乳酸を作らせる、という点以外では同類項に数えてはいけない、と個人的には思います。

(菩提もとが高度で複雑ではないといいたいわけではないですが)生もとは非常に複雑で高度な技術なので、科学技術という概念のないなか、経験的な知識に基づいて、よくぞここまで技術を作り上げたな、と感心します。

簡単に説明しますと、麹と米の重量に対して、およそ95~100%程度の水と共に、5度くらいの低温で仕込みます。諸説ありますが、これくらいの温度帯だと硝酸還元菌が亜硝酸という物質を作るので、雑菌の繁殖が妨げられる、という話があります。

そして、湯を詰めた暖気樽と呼ばれる湯タンポのようなもので何日も何度も繰り返し暖めては、10度以下に冷まします。このとき、酒母の品温が10度以下になるように暖めることで、乳酸菌のみを繁殖させます。

乳酸菌が繁殖して乳酸が十分に出たら、酒母の温度を10度以上に上げ、酵母の増殖を促します。酵母が増え始めるとアルコールが増えてくるので、乳酸菌が死んで酵母のみが純粋培養されます。

以上はかなり問題のある説明のしかたなので、生もとの詳しい作り方を知りたい方は各自教科書などで勉強していただければ良いと思いますが、要するに生もととは「米と麹と水だけを使って、暖気樽による温度操作だけで酵母を純粋培養にまで持っていく」というものすごく洗練されたエレガントな技術だということです。

ただし、実際にここまで洗練されるまでには膨大な試行錯誤があったでしょう。「なんかブクブク泡が立っている(酵母が発酵している)と酒がうまくできる」「暖めると泡が立つことが多い」「どれがうまく泡立つかわからないから、最初は少量ずつ酒を仕込んでみて、それぞれを暖めていって、泡が立ったものに追加で米と麹と水を仕込んだら成功率が高くなる」みたいな、現場での試行錯誤の結果、生もと造りや三段仕込みとして技術が確立したのではないでしょうか。

そして技術が発展したからこそ大量生産が可能になって、そこからさらに技術が洗練される要因になったのだとも思います。

生もと造りの三段仕込みなんて、言ってみれば米と麹と水を四回に分けて仕込んだいるだけです。

しかし、その仕込み配合や仕込み温度、温度調整など、考え付くされた結果に出来上がった技術であるので、仕組みは単純なんだけど本当に奥深いなあ、と思いながら酒造りを行っています。

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