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公園と詩歌の関係について

もとのインタビュー記事から表題の件についての文章のみを抜粋し、わかりやすく主旨を加筆しました。


公園と詩歌については、①中心から外された核心性、②弱い膜の場、③遊牧性の3つで説明できます。

中心から外された核心性

【主旨】小説だけじゃなく経済も現代美術も、詩歌の比喩があるからこそ小説であり経済であり現代美術なのに、いずれも詩歌から受けている恩恵を忘れちゃっているよ。公園もときどき忘れられちゃうよね。

まず、詩歌の根幹である修辞や比喩は、小説など散文が言語芸術であるための核心部分です。しかし芥川賞・直木賞の発表報道と比べればわかるように、現代社会において詩歌は中心を追いやられ周辺の存在となっています。もちろん大河ドラマ「光る君へ」の時代は詩歌が中心にありました。一方で、公園や広場は人々が集まって祭典や集会を行う、都市生活における核心の場ですが、それらは中心機能を有する市庁舎や駅の周辺に置かれた付属品となっています。このように詩歌と公園は中心から外された核心性という点で類似しています。みそのの詩歌賞の公開選考会では、そんな核心性を有するものが中心にいないことを意識できるよう、からっぽを取り囲むように車座に椅子を配置します。そして外との膜をつくってしまわないように一箇所だけ中心のからっぽへとつながる通路をあけます。

弱い膜の場

【主旨】詩は自由詩も定型詩もラップもなんらかの型があって、その型はときどき嫌われ克服されようとするけれど、同時にとっつきやすさも生んでいるよね。知らない町でも看板に公園と書いてあれば入りやすいよ。

つぎに、公園や広場では他人との隔たりが弱くなります。公園で遊ぶ幼児を観察しているとはじめて会った児とも勝手にともだちになって鬼ごっこをはじめます。同じ公園にいるだけでどこのこども園に属しているとかどこの町に属しているとかの他人を隔てる膜は弱くなります。一方で詩歌も、万葉集に東歌や防人歌が収録されているように、詩の型式自体に参加への膜を弱める機能があります。去年の「みそののお花見」ではその機能を活かしたカードゲーム「57577」で遊び、花見広場へふらりと立ち寄った人でも短歌をつくれ、批評もできることを体験していただきました。

遊牧性

【主旨】詩には型があるからこそ意味や文脈をはずれた表現ができるし、何も主張できないからこそ居心地がいいんだよね。公園の居心地のよさもそんな主張のなさにある気がする。

さいごに、公園にはイデオロギーなどの〈大きな物語〉の文脈に沿った主張がありません。であるからこそ、一服したいサラリーマンや引退された世代や学校を終えたこどもたちなど大きな物語から外れた遊牧民が集いやすいのかもしれません。そんな公園がもつ遊牧民との親和性は、かつて入沢康夫に「詩は表現ではない」とされた、主張しない表現としての詩歌をも受け容れてくれる気がします。また、短歌や俳句をつくる人は目的地へたどり着くためではなく単にランダムな事象との出合いから詩歌を着想するために吟行をすることがあります。ときに松尾芭蕉のような長期間かつ長距離の吟行をする者もいますが、その作品は、おおくは散文的文脈ではなく連句的飛躍となります。彼らのようないわば連句的遊牧民は、クリルタイがそうであるように、絶対的な核を持たず、ゆえに膜をつくりません。そんな遊牧民としての詩歌人を演じるべく、私は去年の「みそのの黄葉見」では公園で拡声器を持って歩き回りながらポエトリーリーディングをしました。あれは儀式のようで、ひょっとしたら「天地耕作」ならぬ天地放牧だったのかもしれません。

これら3つの点から、公園や広場で詩歌を扱うと、詩歌のその瞬間におけるありかたの根源に触れられる気がしています。

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