mastodon.socialで、私の詩が公開されたよ、という報告をした。いつものように英語で書いた、urlに詩のうちの2行「ヒトが戦争を考えなくなったとき/同時に詩歌も地上から消え失せる」の英訳を添えて。
するとこれに返信があった。英語ではなく国際補助語エスペラントで。
意訳すると「変だよ。逆でしょ?人が戦争について考えなくなったら地上は詩でいっぱいになる。おそらく、詩は人の恐怖の代償であると君は言いたいのかな(以下略)」それに私はこう応えた。
「コメントありがとう。私も変だと思う。けれど戦争と詩は虚構から起きる。それで、現生人類だけが虚構について考えられるんだよ。」それへの返事は「興味深いレスだね。以下略」
私の詩についての会話だから、ではないけれど詩について一歩踏み入った対話ができ、うれしく思った。互いに母国語ではない言語を使ったからできたことかもしれない。とりわけ私の詩は、言いたいことをそのまま表現せず読んだ人の反発を予期しその反発からのその人自身の発見を時間差で期待するときがある。その予期に海外の人が応えてくれた。たぶん発見も期待していいだろう。もちろんその人は詩の全部を読んではいないと思うけれど、それでも詩を発表してよかったと思う。
そのほかに別の方からのコメントも紹介する。
訳するなら「政治的ではない詩を書くために/私は鳥を聴かなければ/それで鳥を聞くために/戦争屋は黙れ」といったところか。パレスチナの詩人マルワーン・マクールمروان مخولの詩からの引用だろう。良い詩だ。