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あの夏

高校時代の野球部のマネージャーから久しぶりに連絡が来た。5年ぶりくらいだろうか。

「部屋の片付けしてたら高校の卒業文集が出てきて、うちのお母さんがしろの作文読んで感動で泣いてた笑笑」

「なんで!?」と笑いながら独り言が漏れ出てしまうほどの疑問、そしてほのかな喜びが込み上げてきた。
当時の卒業作文には3年間高校生活を振り返って頭に浮かんだことをとりあえず原稿用紙にぶつけていた。それが誰かに届き、さらには心に響いたのだから筆者冥利に尽きる。

書いたことはなんとなく憶えている。
確か、「過去は変えられる」というようなことを書いた。
今回は高校3年生の野球少年が得た貴重な学びについてお話しさせていただきたい。


戻りたくない3年間

これまでの人生を振り返ると、暗いパートの方が多かったように思える。
勉強も運動も苦手。友達も少ない。恋愛もろくにできない。
そんな私が熱中できていたのが野球だった。

中学時代は学校の部活ではなく外部のシニアリーグに所属していた私。チームは強く、指導者に恵まれていたが、チームメイトには上手く馴染めなかった。
我が強い奴が多く、他のチームメイトを嘲笑う一幕が多いのが気に食わなかった。ベンチ外メンバーは目に見えてやる気をなくしていて、チーム全体の士気を引き下げていた。
正直、嫌いなチームだった。

卒業後は野球推薦で強豪私立高校に進むパターンが多かった。一人ひとり、チームの会長からどこの高校に行きたいのかを聞かれて、大体の場合はそこの高校に推薦で進学できるような環境だった。
私も同様にシニアの会長から進学希望先を聞かれて、推薦での私立進学の話があったが私は勉学での一般入試で高校へ進学した。

その理由は2つ。
1つ目は、シニアに頼らない進学をしたかったから。
高校に進学してからも「シニアにお世話してもらって手に入れた環境」という意識が自分に残るのが嫌だった。
そして2つ目は、シニアのチームメイトを見返したかったから。
「中学の野球チーム」という狭いコミュニティで偉そうにしていた彼らが多くいる環境。それに対し、私は別の手段で手に入れた環境で、彼らと戦いたかった。

絶対に戻りたくない、思い出したくもない、そんな3年間を過ごした。
一般受験を経て決まった私の進学先は、野球が特別強いわけでもない、ごく普通の高校だった。
進学先の報告やろくな挨拶もせず、中学3年間お世話になったシニアを去った。


愉快な仲間たち

高校の野球部の仲間たちは、個性豊かでどいつもこいつバカばかり(良い意味で)。周囲が自然と牽制の目線を送りあっていた(ように当時感じられた)クラスとは違い、野球部にだけ流れているそのおバカな空気感が心地良かった。
おバカで愉快な集団だったが野球に関しては実力者揃いで、様々なタイプの選手・マネージャーの歯車がガッチリと噛み合っている実感があった。

各々が好き勝手に振る舞い野球に取り組むチームだったが、互いが人となりやプレースタイルを理解し合い、統一感はないが一体感があるチームだった。

チーム全体で考え、行動し、チームを変えていく。
私たちの1学年上の世代までは夏の県大会で5年連続1回戦敗退だったチームが、私たちの世代で着実に力をつけていくのが楽しかった。
中学時代とはまるで違う。
自信を持って、これは「チーム」なのだ、彼らは「仲間」なのだと言える良いチームだった。


2人だけの勝負

最後の夏の県大会、初戦の対戦相手は、中学時代にシニアでチームメイトだったS君がエースを務める高校だった。
彼は私と同じように確固たるレギュラーを獲得できなかったが、チームのためにユーティリティプレーヤーとして2番手を固めていた選手。中学時代の仲間と思える数少ない人だった。
彼の高校も決して強いとは言えない高校だったが、さすがのS君。力投でチームを牽引している。
試合中に大声を張ってチームを鼓舞する頼もしい姿は、あの頃と何も変わっていない。

6回表、同点で迎えたチャンス。私の打席が回ってきた。
勝敗を左右する大事な場面。
足の震えは試合開始と共に消えていた。
呼吸が深くなっているのが自分でも分かる。
やけに落ち着きつつも、熱を持って睨みつける視線の先には相手のピッチャー。S君だ。
私たちは2人だけの世界に飛び込んでいた。

おかしい。高校野球の舞台なのに、2人ともシニアのユニフォームを着ているように錯覚する。
立派なスタジアムで試合をしているはずなのに、私たちの勝負は、中学3年間血反吐を吐くような思いで練習した思い出したくもないあの河川敷のグラウンドで行われていた。

打球がレフト線深いところまで飛んでいく。3塁ベースまでがむしゃらに走り、ベンチを見ると仲間たちが拳を掲げて私に何かを叫んでいる。
その声はスタンドの歓声にかき消されてよく聞き取れない。

「野球が楽しいぞ、最高のチームだ」
その喜びを噛み締めながら、私も言葉にならない叫びをベンチに返していた。


野球人生、最高の幕引き

込み上げてきたのは高校の仲間たちへの感謝だけではなかった。
「ああ、シニアに行って良かった」
「あの忌まわしき苦しい3年間を送って良かった」
勝負の刹那、そう思ったのをはっきりと覚えている。
私が苦しんだ3年間。あの期間が無ければ乗り越えられなかったであろう苦労が多くある。
シニアでの3年間を超える厳しい経験はこれまでしていないが、シニアでの3年間以上に経験して良かったと思えたこともない。
シニアを憎みながら進んだ高校野球。仲間たちが導いてくれた先に元チームメイトとの対戦があり、そのシニアに感謝するとは。3年前には予想もしていなかった。

S君率いる高校との戦いを勝った私たちの高校はその後4回戦まで進んで敗退し、私の高校野球は幕を閉じた。


敗退から1週間ほどした頃、シニア時代のチームメイトからある誘いを受けた。
シニアリーグの全国大会で決勝まで進んでいた後輩たちの応援に行こうという誘いだった。
誘いに乗って明治神宮野球場へ行くと、そこには3年ぶりに出会う元チームメイトたち。さらにはお世話になった監督・コーチもいた。

「どうせ俺なんて覚えられていないし、試合が終わったらさっさと帰ろう」
そう思っていたが、試合が終わるとあるコーチから話しかけられた。
「おお!しろじゃねえか!お前どこの高校に行ったのかと思ったら〇〇高校だったのか!新聞で見たぞ!」
そのコーチは、勝ち上がっていた私たちの高校のことを新聞でチェックしてくれていたらしい。
素直に嬉しかった。レギュラーでもない、なんの取り柄もない私の活躍を願ってくれているコーチがいたということは、この上ない喜びだった。

最後には、監督にもご挨拶できた。この監督は、私が野球人生で一番出会って良かったと思える人だ。
「おお、久しぶりだなぁ…、どこの高校に進学したかくらい、ちゃんと伝えておかなきゃダメだろう」
気だるそうな返答と共に、監督から3年越しのお説教を食らってしまった。
確かに、進学先を伝えずに出て行ったのは私の不義理だったなぁと反省すると同時に、突発的に感謝の念が込み上げる。
「監督。中学時代は本当にお世話になりました。おかげで高校では最高の経験ができました。ありがとうございました」
「お?お前の高校、そんな良い高校だったかぁ〜?」
そう言いながら笑う監督。自然と私の表情も緩んだ。

この頃には、私にとってシニアでの3年は忌まわしきものではなく、かけがえのない経験に変わっていた。


過去は変えられる

ただただ苦労を重ねた期間と思っていた3年間も、後から思えば自分を成長させてくれた3年間だった。
そう思えたのは、高校で出会えた野球部の仲間たちのおかげだろう。彼らとの野球を心底楽しむことができ、勝負の世界に全力でぶつかることができたからこそ中学時代の有り難さに気付けた。

だから、これから先に待っているであろう苦しい未来も、さらにその先にある未来のために歯を食いしばって頑張りたい。その学びを卒業作文にぶつけた。
時を経て、チームメイトのお母さんが涙を流すとは当時考えもしなかったが、その話を私自身が思い出す良い機会になった。


肌に突き刺さるような紫外線。
地面を這う陽炎。
試合前に降り注いでいた雨の冷たさ。
三塁側からジリジリと照りつける西陽。
グラウンドから見た興奮に包まれているスタンド。
ピンチに押され大きくなる鼓動。
敗北した瞬間の静寂。
仲間と全力のハイタッチを交わして、しばらく手に残っていたピリピリとした感触。
それら全てが、夏の魔力に彩られたあの時だけの輝きだった。

その輝きが、目を背けていた過去の暗黒を照らした。
暗黒も思っていたより悪くなかったかもしれない。今なら過去を肯定できる。

過去は変えられる。
この言葉さえあれば、私は私に負けずにいられる。

そう思えた一生に一度の夏だった。

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