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殺人現場に戻るのは定められた運命なのだろうか。

自分は無価値な人間だと思い、泣き暮らすのが10代前半でその内の5年ほどの間、涙の中で考え出した結論は「価値のある人間になろう」という事だった。それから僕は他人にとって価値のある人間になろうと思い、どんな人間が価値のある人間か考えながら自分を改革していった。脳みそにドリルで穴を開けるが如く、本来の自分の原型がなくなるほどに改造した。

ロボトミー手術でもして仕舞えば善ひぢゃない。

とすら思うほどだった。とはいえ当時の僕はロボトミー手術についてあまりにも無知だったわけだが。

自分が無価値だから孤独で寂しいのだと思った。
寂しくなくなるためには、人に好かれて愛されたら善い。
其のためには人にとって価値のある人間になれば善い。
今の自分が孤独なのは、価値がないからだ。
そういう考えを固めていった。

誰かに愛されたかった。
高校生にもなれば、親からの愛情不足で育ったのは理解っていた。
誰かと依存し合いたいと思っていた。
其のためには、誰かに依存されるほど好かれる人間になれば解決すると思っていた。共依存は良くないと情報としては知っていたけど、何故良くないのかがさっぱりわからなかった。たとえ良くなかったとしても、それで死ぬまで依存し合えばそれはそれで幸せな人生なのではないか、と思っていた。

「何の努力もしないで愛されようだなんて、虫のいい話」
という考えがあるけど、この考えは果たしてどうでしょう。
僕は徹底的にこの考えを実践したのだと思うけど。
其の結果、僕は最終的にモラハラに心身と生活と人生の一部を壊されるというところまで辿り着いた。

「他人にとって価値のある人間」
になるために、僕は少しずつ自我を殺していった。
嫌いなものや苦手なものにも優しく寄り添って好きになろうとしていた。
例えば、お店のロゴだとか、地名だとか、そう云うものにまで。
自分が「あ、これ嫌い」って感じた瞬間、すっともう一人の自分が現れ「いやでもこれは、こういう理由でこうしているんだろうし、事情やそれぞれの人の思いがあって、存在意義があるのだから」とフォローしまくって、自分が感覚的に「嫌い」や「苦手」だと思ったものに寄り添っていった。

そういうことを25年くらいして来たのだろうか。

最近、自分から気力や生気を吸い取る全ての存在をシャットダウンする!と決めた時に、けれどどうすればいいんだ?と
悩んで、試しに神様に聞いてみたのだった。

詰まる処
「あなたは他者に寄り添いすぎて境界をなくしている。その失った境界から吸い取り野郎が入ってくるのだ」と。
そういう話だった。

なるほど確かに、と思った僕は其の辺りの自分の心を見直して、そのようにして他者に寄り添うことをやめたのだった。
勘違いしないで欲しいのは、森羅万象を自分の一部のように捉えていた僕が、自分は自分、他者は他者だと線引きをし、その上で、他人には敬意を払って生きていく。という生き方にチェンジしようと考えた、ということだ。

自分は自分、他者は他者。と境界線を曖昧にしないよう、他人に過剰な感情移入をして寄り添わないように気をつけていった結果、僕はこれまで自分の生の感情を随分と踏み躙り、押さえつけ、なかったものとして扱って来たのだ。

これぢゃ幸せになれない筈だ。
自分の気持ちを無くして、わからなくしていたら何が好きで何が心地よいのかもわからない。
そうして、本当の感情を隠して押さえていたのなら、書く作品だって面白くならない筈だ。

そうして僕は森羅万象に寄り添うことをやめた。
そうすると自分にとって好きなものはこの世には少なく、苦手なものや嫌いなものの方が多いことに気がついた。
そう、僕は好き嫌いが多い。
其の上元来言葉が悪い。
「お前」とすぐに言ってしまうタイプだし、小さい頃はすぐに「死ね」と「ばか」を云うから親に直されて来たんだっけ。
本当の自分でいると言葉がキツイ自覚があるから、そうならないように努力をしてきた。

僕は「キツイ言葉を言わないようにする」だけじゃなく「キツイ言葉を言いたくなるような思考を変える」ようにしていた。
何を思っていようが、礼儀として言わなければ良いだけだったのに、僕は性根から自分を変えようとしていた。
それが間違いだった。

自分自身の魂を大切にできなかったのは、親が僕の魂を大切にしてこなかったからだ。
僕はこの自分の魂が、大切に扱うに値するものだとは、知らなかった。
これが大切だと云うことを全然教えてもらっていなかったから。

あれからたくさんの年月が経ち、僕は再び1997年の秋の地点に戻ってきた気分だ。
思えば其の頃から、この考えが確立していき自己を踏み潰して押さえつけ始めていった。

好き嫌いが激しいし、興味の幅だって本当は狭い。
11歳の頃からヒットチャートには興味がなく、深夜ラジオと探偵小説……それも変格を愛していたような僕が好きなものはあまり表舞台には出てこない。

本当の自分を生きると決めた僕はまた、あの17の夜のように孤独の中に戻ってしまうのかもしれない。
けれどあの頃と違うのは、今の僕は孤独を生きる強さを持っていると云うこと。
多分。
本当の意味では一人じゃないことも知っていると云うこと。

こんな風に生き方を変えてしまっては、きっと離れる人も出てくるのだと思うけど
そうなった時に「俺が間違っていたのか?」とクヨクヨしないで、僕はこの人生を僕が気持ちよく過ごせるようになるために
生きていこうと思う。

僕はこの歪な形をしている自分のことを、面白がって笑いながら生きていこうと思う。



2023年11月頃の執筆。

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