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どうも田舎のおばあちゃんに三上博史の魂が宿っているらしいんだ。

おばあちゃんがいる田舎に行くのは2年振りだった。
80近い祖母は今も農作業に出かけたりしてとても元気だけど、年齢のことを考えるといつ会えなくなってしまうかわからない。とはいえ、去年は世界中で病気が流行っていて、万が一の感染を考えると私はとても横浜から行く気にはなれなかった。

そんなわけで今年はやっと、2年ぶりにおばあちゃんに会いに行ったわけなんだけど、何だか様子がいつもと違う。
いや、だいたいは同じだ。
私に優しくおはぎやお茶を出してくれる笑顔はいつものおばあちゃんだし、話を聞いてくれる時の柔和な表情もよく知っているおばあちゃんの顔だった。

だけど違うのだ。

ふとした瞬間、例えばおはぎのお皿やお茶を下げる時に俯いた時のどこか鋭さのある目、1人で夕方の相棒の再放送を見ている時のなんとも言えない切なそうな瞳、夕食の下ごしらえをしている時の真摯な眼差し。

どうもいつものおばあちゃんらしくない。

まるで別の人が入っているようだった。

外見は勿論変わらない、いつもの私のおばあちゃんだ。背が低くて、白くて短い髪と、皺が刻まれた丸顔。よく知ったおばあちゃんだ。

だけど何だか表情だけが違う。

「晩ご飯を作るから、のんびりしておいで」

そう言ってくれたおばあちゃんの言葉に甘えて、わたしは居間でのんびりとテレビを見ようとしていた。考えてみれば、その声のトーンもいつもより少し溌剌とした、どこか軽やかさがあったような気がしたのだが、気のせいかもしれない。

そうなのだ。昼におばあちゃんに会ってから、日が暮れるまでの間に私はおばあちゃんの中身は誰かと入れ替わってしまったことを半ば確信していた。
あとは理屈さえあれば完璧だった。
そうなりうる理論や理由、とにかく「理」さえあれば私は自信を持って、おばあちゃんの中身が誰かと入れ替わってしまったと言えただろう。

田舎のテレビにはチャンネルの数が少なく、私はすぐにテレビに飽きてしまう。BSとか何かないのかな、とリモコンを色々と触っているうちに、おばあちゃんが撮りためたHDDレコーダーの中身が画面に現れた。
大岡越前、相棒、半沢直樹、ポツンと一軒家、NHK歌謡コンサート、クイズ!脳ベルSHOW、平清盛、世にも奇妙な物語、小さな村の物語イタリア……などなど。
ざっと見てもこんな感じだった。
そういえばこんなの好きだったなあ、というものから意外なものもあって、私はおばあちゃんの知らない一面を見たような気がしてしまう。と同時に、秘密の日記帳をのぞいてしまったような、そんな気まずさを感じた。
どうしようかな、とふと視線を下げるとHDDレコーダーの棚の下にDVDが何枚か置いてある。

スワロウテイル、二十世紀少年読本、草迷宮、屋根裏の散歩者……。棚の中のタイトルを見るとこんな感じだった。あれっ、うちのおばあちゃんってこんな趣味だったっけ?サブカルど真ん中の作品ばかりじゃないか。
今までは私が小さすぎて気づかなかっただけなのだろうか。
わたしは一枚ずつDVDを取り出して、ジャケットを見る。監督はそれぞれ、岩井俊二、林海象、寺山修司、実相寺昭雄……となかなか豪華なラインナップだ。
その中でもわたしは、濱マイク以来少し気になっていた林海象監督の「二十世紀少年読本」をご飯を待っている間、再生してみることにした。

モノクロの画面で、レトロな風景で映画は始まる。制作は1989年か、なるほど。あえてのモノクロ映画なのか。画面に出ている男性には見え覚えがある。はっきりとした顔立ちの美男子。非の打ちどころがない素敵な顔をしている。というか普通にかっこいい。ええっとこれは、みかみ……? いや自信がないからと、パッケージの裏面で名前を確認すると、やっぱり三上博史だった。わかる。そうだ。この人、こんな感じの顔だった。

わたしが知っている三上博史はもう少し年上の素敵なおじさまって感じで、こんな若い頃はあまり見たことがなかった。せいぜいテレビで見る懐かしの映像あたりで見た程度だったんじゃないのかな。

若い三上博史はかっこいい。いや、若い三上博史「も」かっこよかった。絶妙な演技、そしてその演技をより深いものに魅せる表情、笑っていてもどこか悲しさや切なさを帯びた複雑な目のいろ、それから一つのセリフに色々な感情を感じさせる声。ああ、やっぱり若い時から素晴らしい俳優だったよ。そう、わたしはなんとなくずっとうっすら三上博史は好きだったのだ。

けれど、今回この作品を見ているうちに、わたしは完全にファンになっていた。

ふぁ〜〜〜。と声にならないため息を吐いて映画を見ていると、不意に左側でおばあちゃんの気配がする。

「何見てるかと思ったら、そんな古い映画……。面白いか……ね?」

振り返るとおばあちゃんの目はとても鋭く、けれど懐かしそうに画面を見ていた。けれどそれも一瞬で、わたしの方をさっと見ると目尻を下げていつもの笑顔を見せた。20年以上前からよく知っているおばあちゃんの笑顔だ。

「うん、面白いよ」

「そうか。もうご飯ができたから、テレビは消すんだよ」

はあい。わたしがそう返事をするとおばあちゃんは再び台所の方へと行った。
去り際に見えた顔は口角がきゅっと上がっていて嬉しそうだった。その表情は確かに、二十世紀少年読本の仁太……三上博史と同じものだった。

あ、うちのおばあちゃんは三上博史だ。

その瞬間、わたしは確信を得た。

声のトーンとか喋り方とか語尾の感じとかそれから、目の表情、鋭さ、悲しさ、切なさ、あの複雑さ、それからどうみても八十前のおばあちゃんにしてはイケメンすぎるあの笑顔。完全に三上博史のそれだった。わかった。わたしはわかってしまったのだ。

しかしこんなこと誰にも言えない。真相に気づいているのはこの世界でわたしだけなのだ。おそらくきっと。

そもそもおばあちゃんは一人暮らしの上に、家は過疎地の農村の集落で、隣の家もはるか遠くに離れている。おそらくこの集落の人は誰もおばあちゃんが三上博史になっていることに気がついていない。

わたしは中身が三上博史(さん)になったおばあちゃんにどう接していいのかわからないまま一晩過ごしてそしてその次の朝にはバスと電車を乗り継いで横浜に帰ってしまった。何も言えないまま。

あれはおばあちゃんだったのか。三上博史だったのか。一体どっちなのか。いや、表面上はいつものおばあちゃんと同じだった。何も変わっていなかった。作るご飯も寝る時間も。家具の配置も使っているティッシュのメーカーも。何もかも一緒だった。

おばあちゃんは老人特有の何か病気を発症しているのだろうか。いや、そんな感じはまったくしなかった。言葉も動きもいつも通り元気で、いやむしろ元気すぎることを抑えているところに違和感があった。

中身だけ三上博史になってしまったおばあちゃんのことを、父や母にどう伝えたらいいものかわからないまま、季節は過ぎていった。

3ヶ月後、何気なく見ていたLINEニュースでわたしはこんな見出しを見つけることになる。

「三上博史、今度は老婆役に挑戦!」

ということで見出しをクリックして記事を見ると、老婆に扮した三上博史の写真が出てきた。スクロールすると、映画のカットが何枚か乗っている。……が、わたしはその写真を見て驚いた。

わたしのおばあちゃんそっくりではないか。顔立ちや骨格は確かに三上博史なんだけど、表情や姿勢、立ち居振る舞いがうちのおばあちゃんそっくりなのだ。背筋の曲がり具合、それから畑を眺めている時の視線。大らかそうな表情……そこにはわたしのおばあちゃんが居た。

記事を読むとこんなことが書いてあった。

「今回の役作りにあたって三上さんには不思議なことが起きたのだそう。

自宅で台本を読み込んでいるうちに、自分が本当に田舎暮らしの老婆になったかのように、リアルにその世界が目の前に広がっていたとのこと。

なんとそのイメージの中で、遊びにきた孫をもてなすということも行ったようで、役作りは完璧です!

実際にその世界を体験して生活していたような気持ちだったそうです」

これは……。

わたしにははっきりわかった。

あの時の夏休み、わたしが出会ったのは、やっぱりおばあちゃんであっておばあちゃんじゃなかった。

三上博史が憑依したおばあちゃんだったのだ。

三上博史さんは台本を読み込んでいるうちに、自分でも気づかないままわたしのおばあちゃんに憑依してしまっていたのだろう。

あれはやっぱり三上さんだったのか。けれど、さすがだな。あの演技力、三上さんが入っていたとはいえほぼ普段のおばあちゃんだったもん。やっぱりあの演技力はすごい。

夏休みにわたしが一緒に過ごしていたのは、三上博史だったというわけだ。けれども、この出会いを出会いとしてカウントしていいものか、わたしはこの後しばらく悶々と悩むことになる。

おしまい。

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