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日立で渡辺温の聖地巡りをした話(2日目

一日目は興奮してとても眠れなかった。
何が如何と云う譯では無いけれど、とにかく情報量が多いと感じた。
温が過ごした町、温の心象風景に多少なりとも影響を与えたであろう此の町を五感で感じる事は、僕にとって非常に刺激が強かった。
目で見る景色、百年前と變わらないであろう波の音、虫の聲。常磐線の音、町の匂い、空気、あらゆるものが毛穴に刺さり、僕の細胞をずっとざわつかせて居た。
この町の總てが僕を揺さぶって居る。

午前8時の日立の海

一日中歩いて居たのに3時頃まで全然眠れず、4時にも目を覺まし、6時にはもう起きて仕舞って居た。
寢不足なのは頭では理解して居るけれど、心と身體が興奮氣味で迚も落ち着かない。

2日目は、温の實家から小学校まで歩いてみて通學を追體驗すること、そして啓助さんと共に在籍して居た水戸中学(現在の水戸一高)に行くこと、そして水戸をぶらりと観光して歸る豫定だった。

持ってきた服や資料、及川道子の寫眞など。

然し一晩過ごして、僕はこれで日立を離れるのが名殘惜しく成って居た。
買って置いたパンを食べて朝御飯を済ますと、インバネスを着て山高帽を被ってホテルを出た。
僕は日立驛のコインロッカーに荷物を預けて、もう一度渡辺温のお墓に挨拶に行くことから始める事にした。
あの場所へ行くと温が居た事を感じて堪らなく切なくなるし、次は何時來れるか解らないと思うと離れ難い物が在った。

驛からお墓のある鏡徳寺まで徒歩15-20分。
もう一度僕はお墓に手を合わせて、渡邊家の皆樣も何度もお邪魔してすみません…と思いつつ感慨のような物に浸り、そして墓の前を後にした。名殘惜しい氣持ちだった。

温のお墓が在る鏡徳寺。

当初は温の實家跡地から小學校迄歩いて朝の通學を追體驗する積もりだったけど、お墓に來て仕舞ったので一旦そこから助川小學校へ行き、助川小學校から實家の方へと下校を再現する事にした。

鏡徳寺を出て大きな通りを歩き、コンビニでお茶を買ってその儘なんとなくコンビニの角を曲がって、眞直ぐ歩くと、なんとびっくり小學校の眞正面に着いた。

助川小學校前。

前回車で小學校へ行った時とは別の入口だった。
「此方が昔からある門で温が使っていた校門だ」と直感した。
前回は病院の方を上がって坂の上にある校門の方へ行ったのだが、今回は高校の向かい側の校門に出た。
前回は「此處に温が通っていたのかな…? 此處で合ってる?」と、なんとなくピンと來なかったんだけど、今回は絶對此處だ!と云う確信があった。温の家の位置からしても此方側だろう。
門も古く、助川城跡で在ることを示す石碑などが在った。

助川小向かいの高校。門が完全に近代建築だ。

小學校の校舎は丘の上で、校門から急勾配の坂を登って登校する樣だった。
とすると…下校時の小學生たちは坂道を転がるようにダッシュして學校を出ただろう。まして、明治末期、大正初期の小學生男子なら、道路に自動車も少ないだろうしルール無用で駆け下りたんじゃないかな。屹度坂の上から見える太平洋を目に映しながら、解放感で走り出したんだろうなと思った。

歩道橋からの景色
旧高鈴尋常小學校こと助川小學校。


もう一方の門。
中々の坂道。

で、學校が終わるなり坂を駆け下りて校門を出て家へ向かうとして…と想像しながら僕は歩く。
當時の道と今の道は色々と樣子が違っているだろうから、同じ道筋じゃないだろうけど、何となく家まで近道になりそうな行き方で道を選んで歩いた。
然し小學校から實家迄は本當に遠い。

助川小學校からまずは日立驛を目指す。

歩いても歩いても中々着かない。Googleマップによると徒歩30分の距離だった。子供の足だともっと時間が掛って居たかも知れない。
僕は小學生の時、3年間は片道30分掛けて、2年間は片道40分掛けて通學して居たから此の距離を毎日歩いて居た温の氣持ちは察する物が在る。長い通學時間は退屈過ぎて、2年で厭きた僕はそのうち夢野久作などを讀みながら歸って居た譯だが…温はどうして居ただろう。
屹度友達と寄り道をして遊んだり、矢張り本を讀んだりしながら歸ったんじゃないかなあ、等と僕は想像した。

近代建築の痕跡。竣工、昭和初期ぢゃないかしら?

途中に渡邊家のお父さんが働いていたセメント工場が見えたから、近くで見てみようと寄り道をした。

日立セメントの煙突などが見える。

内部は當然變って居るだろうけど、敷地面積等は同じなのかな。温はそう近くに行くことは無かったかもしれないけれど、全く行かなかった譯でもないだろう。

日立セメントのすぐ近くにあった古そうな煙突。
日立セメントの壁。

此れがお父さんの會社…と思いながら僕は壁の周りを軽く歩いて亦、驛の方に戻った。


日立驛

温が居た頃は常磐線助川驛がしっかり稼働していたので、温も驛の構内を通って通學して居たんじゃないかな、と思い、僕は日立驛の中を通って海側の温の實家跡地まで”歸”った。遠かった。2月だというのに暑くなる程に。
家に着いたら波の音が響いて居て、僅かに見える海の色は鮮やかで潮風が吹いて爽やかだった。あの景色を見たら何かほっとする氣持ちになる。

實家跡から見える海。

旧高鈴尋常小學校から東海岸まで下校してみて、僕は小學生の頃の温の事が少し解った氣がした。

「下校」を済ませた僕は、その後もう少し海に触れる事にした。
此れは「学校終わった後、海で遊ぶ渡辺温ごっこ」かもしれない。

温の實家の眞下の海は工事中で一般人が入れなかったので、僕は未だ彼らの樣に海に直接触れられて居ない。だからもっと此の海を感じたかった。
坂を降りて渚橋の方へ行ってそこから海岸沿いを歩く。結局護岸壁というのかな、混凝土(コンクリート)の壁がずーっと在るから、海岸沿いを歩いて居ると海は餘り見えなかった。

けれども波の音はずっと聞こえている。これが温たちの日常生活の音なのだろう。
海岸沿いを歩きながら崖の上を眺めたり、此處でもし津波が起きたら何處から逃げれば善いんだろう? と少々ドギマギしながら歩いて居た。僕は心配性だ。

やがて驛の眞下邊りに来たら、避難用の階段があったのでそこから一旦上へ上がることにした。

津波避難用の階段。


階段からの景色。

階段を登ると鮮やかな海がよく見えた。

避難用階段だからなのか、階段はふわふわで可成りの高さを登っても全然疲れなかった。虚弱な僕でも餘り息切れすることがなかった。ありがたい。素晴らしい。

日立驛のバス・タクシーのターミナルに座ってしばらく海を眺めて休憩して、その後少し迷ったけど會瀬海水浴場の方へ行ってみることにした。僕は未だ此の海の砂濱に降り立って居ない。
夏になると海でよく泳いだという兄弟のその海をまだ直接知らないと思ったのだった。
驛から更に歩くこと20分程。初めての道なので多少心細い思いをしながら、會瀬海水浴場に着いた。

2月の會瀬海水浴場

冬だったけど何人か人が居た。僕は海を見ながら、手前のコンビニで買ったアメリカンドッグを食べることにした。
インバネスを着て居たので、砂の上には座らずに立って食べた。
お腹を膨らました後はもっと波に近附いて、濡れない距離で海を眺めた。
潮の香りがはっきり僕の鼻に届いて、その時「ああこれは、啓助さんのお墓で漂っていた潮の香りと同じだ」と悟った。
やっぱりあの時、お墓で「温のことがもっと知りたければ日立の海へ行きなさい」と云われて居たんだと思った。啓助さんの優しそうな笑顔が腦裏に浮かぶ。
テトラポットが無い海に波がダイレクトに押し寄せる。その樣子を眺めて居た。此の海が温の心の中に在るんだと感じた。

會瀬海岸を出て驛に戻る。
水戸へ行ってその儘家に歸るのが妥当に思えたけど、僕はやっぱりどうしてももう一度、日立の夜の海を見たかった。
水戸への電車代は600円。
もう一度亦、横濵から日立に來る事を思えば安いものだ。往復1,200円の旅のアクティビティだと思えば。
と云う譯で僕は、嘗ての水戸中学を見に行って、また日立に歸って來ることにした。

日立から水戸までは電車で30分程だった。
啓助さんは当初貨物列車に乗って通學して居たと云っていたっけ。2時間か3時間かかったという話だった樣な。
学校生活2年目から啓助さんは寮に入ったと云う話だった筈なので、それなら温も一緒に寮生活だろう。
温は毎朝電車に乗って通學する事は無く、日立ー水戸間の電車は夏休みや冬休みに歸省する時位しか乗らなかっただろうけど。
始めの内は車窓から海が見えて居たけれど、その内緑の景色になり、その内水戸に着いた。兄弟も此の樣な景色を眺めて居たのだろうか。

道中の国旗。2/11で祝日だったから。確か宮田新八郎が暫くは2/11の祝日の国旗を見るたびに温が亡くなった時のことを思い出していた、と書いていたと思う。温が亡くなった日、外はこの祝日の国旗が並んでたという話。

水戸驛から水戸中学こと現在の水戸一高を目指して歩く。
坂道を上がって水戸藩の痕跡を眺めつつ、坂道を上りきるとそこが水戸一高の在る場所だった。

橋を渡る。
眼下には鐵道の線路。

一般公開されて居る。

此處は水戸城の旧本丸跡地だそうで、門は唯一現存する建築物の「藥醫門」と云う名前らしい。そういえば、小學校もお城の跡地だったね。面白い。

こう云う場所で勉強したのか、と彼らの心に思いを馳せる。
寮はどの邊りに在って、何樣な生活をして居たんだろう。

校門を出た時の風景。温は何様な氣持ちで此の景色を眺めたのかな。

寮から自由に出て、休日は水戸の町で遊べたりしたのかな。否、そうして居たんだろうな、温は水戸中時代は映画に溺れたと云う話だから。

そんな事を思い乍ら、高校を出て軽く水戸藩の建物を眺めてまた水戸驛へ戻った。

水戸一高近隣の建物。江戸時代っぽい街竝みだった。
帰り道。下り坂。
後ろ姿。

驛前を少し見學して(僕は地方都市の歩き比べが趣味)お土産屋を見て、そしてまた日立へ歸った。
餘所者の僕が「日立に歸る」と云う経験をしている事に軽く興奮を覺えた。
「水戸から日立に歸る」という感覚は、水戸中に行ってた頃の温を追體驗することになるだろう。

水戸から日立へ向かう電車は、人も少なくのんびりした物だった。
「日立へ歸る」と云うのは此樣な感覺か、と思いながら束の間の間僕も日立に實家が在るような氣持ちに成って居た。

日立へ着いたのは夕方だった。

夕方の海を少し眺めて、僕は眞っ暗な海を待つ間、驛前の商業施設でご飯を食べて休憩をしたりお土産を買ったりした。
お土産は自分用に大みか饅頭を買った。

明治時代か大正時代からあるお菓子ということで、此れは渡辺家のお父さんが仕事関係の相手から贈られて、子どもたちで食べて居てもおかしくない物だな、と思って買ってみた。
家族にはめしどろぼう、お世話になってる人には美味しそうな地元の醤油。歸る時間は迷ったけれど、餘り家を留守にするのも良く無いかと思い、20時の電車に乗る事にして、19時の少し前から僕は海を見る爲に驛の方へ行った。

海岸口を降りた場所から海を眺めた。


空と海の境界が無くなって一面が眞暗闇になる。そこから絶えず打ち寄せる波の音。海岸の道路を走る車の燈り、街燈に照らされて見える波、彼方で瞬く船の燈り。等等。
僕は此の景色が堪らなく好きだ。ずっと見て居たいし、ずっと見て居られる。
此の夜の海が渡辺温の心の中にあるのだと感じた。
1時間近く夜の海を眺めて、歸りの時間が近附いて來たので僕はコインロッカーで荷物を出して改札内に入った。
ホームに降りたら海は見えないから、改札の中からも少し夜の海を眺めていた。本當に名殘惜しかった。

けれど、行かなくちゃ。と僕は心を決めてホームに降りる。
此處からは「實家から東京に戻る渡辺温」ごっこになる。
渡辺温の歸り方をなぞるために、僕は特急で上野迄行った。
乗車の2時間を掛けて、景色は少しずつ街になっていく。
此様な景色の移り変わりを温は感傷的な氣持ちで眺めただろうか。
それとも樂しい東京生活を思って胸を彈ませたのだろうか。
僕は自分の心を温に重ねながら上野驛で降りた。

自宅に歸って、僕はおおみか饅頭を食べた。
皮がもちもちしていて「かるかん饅頭」の樣だった。
僕が大好きなタイプのお饅頭だった。

大正時代のお皿で食べた。

*
二日目は此樣な感じでおしまい。
家に歸っても情報量が多く感じて、僕は妙に興奮していた。
あの海や景色を落ち着いて捉えられたのはその翌々日位で、日立の海を思い出して僕は何故だか唐突に胸がいっぱいになって嗚咽する程泣いてしまった。それで漸く氣持ちの整理が出来た。
何かがあるという譯じゃなく、僕はただ海を見て居ただけだったけど、またすぐに日立に行きたいと思った。
というより「日立に歸りたい」と云う感覺になった。
一度行っただけなのにあの町が僕の地元のような感覺になった。
出來ることならその内1周間程滞在してみたい。
といっても、ただ海を眺めたり散歩したりするだけなんだろうけど。


おしまい。


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