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おしるこに塩

「バッテリー残量が少なくなっています。
 バッテリー残量は残り20%です。」
スマホの画面に通知されるアラート表示。
わたしのスマホはいつもバッテリーがない。
だけど、ある日だけはフル充電で備えている。

 そのある日というのは、他でもない推しとお話しできるミーグリのこと。
目の前のひとの顔を眺めながら、直前まで話そうと思っていたことをわたしは一瞬で忘れてしまう。

 9th Singleの個別ミーグリも最終を迎え、推しの
正源司さんと話せるのもとりあえず一区切り。
ミーグリは推しの顔を見れるだけで、少し話せるだけでも楽しい。
そんななか、画面が切り替わるあのカウントダウンの緊張感とバグバクしている心臓の鼓動で体が小刻みに震える。
口から心臓が出ちゃうんじゃないかと、"僕の心臓のBPMは190になったぞ"のまさにそれだった。
朝から晩まで張り詰めていたその緊張感を二度と
忘れまい....!と身をもって感じたのに、
またミーグリに参加するのは、伝えたいことが
沢山あるからというのが大きい。
それに、今のところ四期生にライブや雑誌の感想を伝えられる機会は、ミーグリと手紙くらいしかないので。

ミーグリではじめて話した時の印象は、頭で想像していた人とちょっと違った。
何度思い返しても違ってなんかよくて、緊張に解き放たれながら"可愛かった...."と放心していた。
推しはリアクションが良くて、クリクリした目で真っ直ぐ見てくるお顔が可愛くて、手鞠みたいに弾むように笑うんだなと思った。

雑誌のインタビューで"どんな言葉で褒められたい?"という質問があって、
推しは"かわいい、優しい < 面白い"と褒められたいらしい。
おもしろさを追求するあたりに関西魂を感じる。
それでも可愛いを避けてそれだけを伝えるのはちょっと難しそう。
だって可愛さが予告なしにまっすぐこっちに飛び込んで来るから。
会うたびに可愛いを更新してくるひと。
何回唱えれば気が済むのか終わりがみえない可愛いのかけ算。
可愛いって言葉はあっても、目には見えない
"曖昧なもの"だと思っていた。
でも、いざ抗えない可愛さと対峙すると、
"目に見えるもの"だと感じる。
その人から溢れている魅力と努力に惹きつけられて、ぎゅっと凝縮されたオーラみたいなものを真っ向から喰らっている。

そもそも推しているひとを前にして冷静な状態でいられるはずがないなと思う。 
 ライブ会場で観ていても、配信で観てても、
画面越しで話すことも推しのブログでもなんでも、無傷で帰れるひとっているんかな。
なにかしらの致命傷を負って、現実に生還しているみたいだなと思ったり。好きというだけでアホにもなれるし、それは痛みとさほど変わらない。
目の前でパチン!と手を打たれて、夢から醒めるまでのそのもどかしさに似たもどかしさ!
とわたしの中の石川啄木が唸りながら、そうなっている時点で"推しのエリア"にハマってるんだろうなと思い知る。

そうやってライブや歌番組、雑誌とかで推しの
活動を追っていて、たまに思い浮かべるある小説の一節がある。

人生は、いつまで続くかわからないものだからね。
行けるときに行っておくのは
ー行くべきときに行くのは、大事なことよね。
行くべきとき。それがあなたにとって「いま」ならば  ーいま、行くべきよ。

原田マハ『あなたは、誰かの大切な人』

「待っている人」と「行く人」がいるとして、
わたしはどっち側だろうと考えた時、この小説を
読む前までなら、「待っている人」だと思う。
まだ "だった" と言えないのは、「行く人」に
完全になれたわけじゃないから。
だけど、世界がもっと広がるのは「行く人」だと、この小説に背中を押された気がした。

それともうひとつ忘れられない言葉があって。

皆さんにはこれまでも何度も伝えてきましたが
どうか、好きな人には会えるうちに会いに行って
ください。

たくさん気持ちを伝えてください!

日向坂46公式ブログ2022.07.29
渡邉美穂『いよいよ、ですよ、』

このブログを読んだ時、説得力しかなかった。
真っ直ぐにアイドルに向き合ってきたひとだから
紡げる言葉だと思った。

"推しは推せる時に推せ"という何かを推している人なら知っているであろうこの言葉。
ハマるなら早いうちに知っておくほうがいいと耳にするたびに、確かにそうだけど最良のタイミングっていつだろうと思う。たぶん、出会ったその時のそのひとがいつだって最高な瞬間で他には変えられないはずだと信じてる。
"会えるうちに会いに行くこと"、"気持ちを伝えること"、どんな形であってもそこに多いも少ないもないんだろうなと、どれが一番いいというのも別にないんだろうなって思った。
 "推し"と使うけれど、可愛いも応援もファンもわたしにとってその人の名前に勝るものはないです。その人の名前が刻まれたタオルとペンライトを掲げるのも全てそのひとへの想いでしかなくて、それはどこか自分のためであることに繋がっているなと感じる。
"推すこと"を考えた時に、わたしは俯瞰して熱中しているものを観ることはできず、自分のタガが外れた熱中に引きながらも止めることはできない。
ユーモアで乗り越えることができないから、全てを燃やし尽くすような勢いからくる波だと思う。
この"推しは推せる時に推せ"という言葉は、どこか呪文みたいに自分自身にこれが好きだと応え続けるような言葉に思えてくる。

好きなものを追いかけている時間はちっとも陰りがなくて目の前が一心に明るく見えると、常々感じるこの感情はおしるこに塩を入れるみたいで。
(鮮やかに見せてくれる推しを塩に例えるのもどうかと思ったけど、、)
塩を入れると甘味が増して、そのうえ味が引き締まる効果があり、入れすぎるとしょっぱく感じると知った時、好きなひとを応援する時間にある熱とコントロール不能な部分になんだか似てると思った。

 普通の毎日を過ごすなかで、この日に行かなかったら次は会えないかもしれないと思いながら、いつもと違う日だと思える日がミーグリ。
好きな人と話せる時間に意味があると実感する。
"その時間"の中にあったことをできる限り覚えていたくて書き留めるから、へんなことも覚えてるけどごめんよ推しメン。

 好きなグループや推しに礼儀を尽くせているかを大切にしながら、自分のために行動してることを自覚して感情に慣れたくない。
身勝手さを理由にしないで、推しが好きだから、
ただ一心にそれだけでいたく、せめて言葉と想いは使い果たしていくような勢いで追いかけていたい。

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