見出し画像

産休クッキーで浮き彫りになった問題への対処法

最近X(Twitter)で「産休クッキー」というものが話題になりました。

産休に入る人が、職場で配ったクッキーを自分でXに投稿したのですが、そのクッキーには可愛らしい赤ちゃんのイラストがあり、「産休をいただきます」「ご迷惑をおかけしますがよろしくお願いします」と書いてありました。

2024年4月15日の投稿で、4月19日現在、1万リツイート、4万いいね、5,400万見られているとのことです。かなり大きな話題となっています。

私も大分反応してしまい、11回も産休クッキーの話題を出してしまい、過剰に反応していることに気づきながらも、止められませんでした。そのくらい心をざわつかせる話題でした。

なぜそれだけ心がざわついたのか、のちのちの自分のためにもまとめてみます。また、それぞれの課題に対し自分はなにができるのかも考えます。


「産休クッキー」が浮き彫りにしたもの

私が「産休クッキー」によって明確になったと思う問題は、以下の7点です。

  1. 持たざる者は持てるものへ不快感を抱く

  2. 自分の幸せを自覚していない人は多い

  3. 「他人の幸せへの不快感を抱く人」への不快感

  4. 意見を言うことを「叩く」と感じる人たちが多い

  5. 祝福と労わりを強要する行為というものがある

  6. 産休を快く思っていない人は多い

  7. 「職場でお菓子を配る」の是非

「産休クッキー」がXに投稿されたことで、多くのことが見えてきたと思います。その点で、私はこの投稿があってよかったと、心の底から感じています。

せっかく見えた問題をそのままにするのは勿体無い。対処法を考えて、いろいろうまくやっていける方法がないかを探ります。

[問題1] 欲しくても持てないものを持っている人への不快感

産休クッキーを見て人によって反応は変わると思いますが、私は最初は結婚していない人、子供が欲しくても持てない人に配慮がない、と感じました。

結婚をしたくてもできない人と、子供が欲しいけどできない人には辛いクッキーだな。これを渡すのは仲の良い人だけで、他の人には別のものを渡すとのこと。これをXに上げなければ何も問題はなかったかも。この投稿を見て、私がもし産休に入るとしたら、何も配らないことを決意した。

Xの自分のポスト。今後の引用も同様。

私は自分が欲しいと思っているものを持っている人に対して、羨ましいと感じ、嫉妬します。いいないいな、私も欲しいな。欲しいけど持てなくて辛い、と感じます。

最初のポストでは一般論として「結婚をしたくてもできない人・子供が欲しいけどできない人」としていますが、これは私のことです。結婚をしたくてもまだしていない・子供が欲しいけどできるか不安な「私」が、このクッキーに嫉妬という不快感を覚えました。

他人へ嫉妬を感じない人もいるでしょうが、私は感じます。それを「自分が満たされていないから他人に嫉妬する」のように発言する人がいますが、その通りです。ですが、この世に全て満足している人はどれだけいるでしょうか。誰しかしら何かしらで満たされず、幸せな人を不快に思う人は確実に存在しています。

さらに、その嫉妬の感情は日常生活で表に出すことは少ないです。「嫉妬している」という状態自体が、他者を不快にさせるものだからです。誰かに真剣に嫉妬している人をみて「素敵な人だなあ…」と思う人はほとんどいないでしょう。だから隠します。

しかしXでは私を含めてリアルな自分の感情を正直に書く人が多いため、今回その不快感を明確に表明する機会になったのだと思います。寛容さが減ったとかではなく、今まで可視化されていなかったものが浮き彫りになったのでしょう。

[対処法] 自分の気持ちを否定しない・爽やかに伝えてしまう

嫉妬の感情自体は、自然に湧いてくるものだと思うので、その気持ちを否定する必要はないと思います。嫉妬していると自覚して、変な行動(相手に嫌なことを言う、陰口を言う)などをしなければいいだけの話です。無理に消そうとしても消えないでしょう。

また、素直な気持ちを言ってしまうのも、変に隠すよりはいい気がします。私は結婚していたり子供のいる仲の良い友人知人には、「私も結婚したい!私も子供欲しい!」と伝えてしまっています。その方が「羨ましい…」と心で思っているより、自分の本当の気持ちをオープンにでき、お互いに楽な気がします。

[問題2] 自分の幸せを文字にして人に配るということ

次に感じたのが、「自分が置かれている幸せな状況を、文字にして他人に渡す」ことへの違和感です。日常生活ではほとんどないので想像でしかないですが、ギョッとすると思います。

産休クッキーに全然気にならない方たち羨ましい。私は子供が欲しいけど持てるかすごく不安だから、かなり心を揺さぶられるクッキーだ。転職する人が、「給料の良い転職します」とクッキーに書いて配るのと変わらない気がする。自分の幸せをプリントして配るって点では。

産休クッキーを配る人(このクッキーが販売されているということは、Xに投稿した人だけではなく、複数の人が既に配っているはずです)は、そんなこと(自分の幸せな状況を、文字にして配る)は思っていないと思います。「私は妊娠して産休を取る」→「迷惑をかける謝罪、お世話になることへの感謝を込めてものを配る」と考えていると思います。

私の推測ですが、「出産を控えていること」を特別な幸せと考えていないのではないでしょう。もちろんこのクッキーを買う時点で、非常にうきうきな気分になっていることが見て取れます。でも、「結婚はできるよね、妊娠はできるよね、無事に生まれるよね」とそれらを当然と思っていないと、文字にして配ることはできないと思います。

結婚している人の割合、子供を望んで子供を授かる人の割合は、そうでない人より多いです。そちらが多数派、マジョリティです。多数派は多数派であるが故に「それが普通」と感じます。しかし、結婚したくてもできない・子供が欲しくても持てない少数派から見ると、ものすごい幸せなことなのです。

産休クッキーへの考えがポコポコわいちゃう。迷惑を謝るつもり、もしくは自分の分の仕事をやってもらう感謝の気持ちなのだとは思う。だけど、子供が欲しいけど持てない人には痛烈なんだよな。自分が本当に欲しいものを持てない苦しさを感じたことのない人なのだろう。幸せな人は時に鋭利な刃物になる。

幸福な人は、それを持っていない人を想像できないことが多いと、今までの人生で感じることがありました。

例えば、東大を卒業した知人は、「勉強したかしないかは自己責任」と言っていましたが、もちろんその面はある。しかし、その人は小学生の時に優秀な大学生の家庭教師に教えてもらっていました。もちろん学歴にはその人の努力が重要ではあるものの、親が勉強への意識が高く、家庭教師を雇うという状況がいかに幸運かに気づいていないようでした。

自分自身も人より恵まれていたり、幸運な部分もあります。色々な他者の存在を知らないとそれを自覚することはできません。まだ気づいていないで、他者を傷つけている可能性もあります。自分のこの部分はかなりの幸運で、それを得られない人もいるという自覚がなければ、配慮することはもちろんできません。

[対処法] 自分の幸せを言う相手と場所を選ぶ

誰にでも自分の幸せな状況を言ってもいい、と私は思いません。問題1にも書いた通り、他者の幸福を知ることで、嫉妬の感情で苦しくなる人もいるので。なので、私は「自分より幸せな人に言う」を鉄則にしています。

恋愛で嬉しいことがあったら、恋人のいない友人ではなく幸せな結婚をしている友人に言う。もしくは親に言う。勉強でうまくいったら学歴の高い友人、仕事が順調なことはキャリアのある友人知人、といった感じです。

私の友人知人は非常に配慮のある人ばかりなので、彼女らも自分が持っていて私が持っていないものを持つ幸福を私におおっぴらに話すことはしないです。ですので良い関係を保てていると思います。

次にリアルの場以外、SNSについてですが、私はXに恋人を持つ喜びを物凄い頻繁に投稿していました。それを読んで辛い思いをする人はいると思います。そう言う場合はミュートやブロックをしていただければ、という思いで投稿していました。

自分自身、ミュートはよく使います。私は自分の年収がもっと高ければなあと考えているため、年収が高い人にもかなり嫉妬してしまうので(特に女性)、具体的な高年収の数字を投稿するアカウントの人はこまめにミュートしています。

XやSNSにはミュートやブロックがあるけど、日常生活ではミュートやブロックは気軽にはできない。そんな場で言葉にして手渡しされると、逃げ場がなくなってしまうと思うのです。

[問題3] 「他人の幸せへの不快感を抱く人」への不快感

今回の騒動で「こういうことあるんだ!」と思った一つは、産休クッキーに違和感や不快感を抱く人へのバッシングがかなり強烈にあったことです。「他者の幸せを祝えないのか」、と。

「私は気にならない」という言葉を添えて、気になるひとが信じられない、という表明の仕方をする人も多かったです。このことはよく考えると、産休の人への祝福の強制だなあと思います。他者を祝福するかどうかは、本人の自由だと思いますが。

[対処法] あらゆる他人の幸せを祝える人、祝うのを強制するもいる、と単に知識として知る

 他人の幸せな状況を不快に感じる人を否定できる人は、あらゆる他人の幸せを祝える人なのでしょう。私は全然知らない人の幸せは、祝いも否定もしないのが普通です。その人がどういう人かわからないので。いい人かもしれないし、嫌な人かもしれない。

私は心が広くないので、嫌いな人の幸せはあまり祝えません。「へー」という感じになります。でも、人間そんなものだと思います。相手を攻撃しないのであれば、祝う・祝わないのは自由だと思います。

でも、相手の事情も知らずに「祝えないなんて!!」と不快感を表す人がいる、ということも知り、「そういう人もいるんだな〜」と、人間についてさらに理解が深まったと考えればいいでしょう。

[問題4] 意見を言うことを「叩く」と感じる人たちが多い

問題3に関連しますが、産休クッキーへの「意見」に対して、「あなたは出産を迎える人を素直に祝えないのですか!」ということを非常に攻撃的にリプライする人を大量に目撃しました。いや、これは「叩く」ではないと思うけど…。

賞賛するか同意する以外に意見を言うことを「攻撃」だと感じる人が多いようです。これは日本特有なのかと思います。欧米では学校教育でディベートが頻繁に行われ、「自分の意見を言うこと」が普通のようです。その感覚のない人が日本には多く、賛同以外は否定なのだ、と決めつけてしまうのでしょう。それって議論が深まらなくて、つまらないし怖いな、と思います。

[対処法] 意見を言われたくない人はSNSを非公開にする

自分の発言に対して意見を言われることを「攻撃された」「叩かれた」と感じる人は、SNSの投稿を非公開にするのがベターな対処法でしょう。もちろん、限定して公開している相手に意見されることもあるので、一番はSNSに投稿するのをやめることです。

問題は、他人が意見を言われていることに対して、「叩くな!」と言ってくる人たちがいることです。今回も産休クッキーの投稿者が「叩かれた!」と言っているわけではなく、周囲の人たちが言っていました。

この人たちへの対処法は、正直沈黙しかないのかなあと思います。うざったい場合にはこの人たちをミュート・ブロックするしかないでしょう。

[問題5] 祝福と労わりを強要する行為というものがある

産休クッキーの違和感、このポストでまた一つ見つけた。あれは、祝福と労りを強要する。裏で何考えているかわからない、に配る側がしている。心から祝福する人はもちろんいる。しかし、祝福したく無い人を無かったことにする力が働くと思う。

上記のポストへのコメント

産休クッキーを配る→実際の職場の人は暖かく「おめでとう!」「身体大丈夫?」「頑張ってね!」と言ってくれる→実は裏では不快に思っていた。怖い!という意見ですが、ではクッキーを配ったときに、自分の本心で不快に思っても、それを表せられるのかどうか。職場だとほぼ無理でしょう。ということは、クッキーを配ることは、祝うつもりのない人に祝いの言葉を強制する力があると思います。その証拠に、X上にはあれだけ「出産を祝福しろ!」という他人に祝福を強制する人で溢れていました。

そもそも、「プレゼントをあげる」には、ある意味感謝の言葉を強要する働きがあると思います。何かをもらったときに、「ありがとう」と言わずに受け取ることは難しい。

近い例に、「私はダメな人間なんだ…」と言う人がいたとします。その発言は言った相手に「そんなことないよ」を強要すると言えると思います。一つの行為が、相手の行動を制限し、ある行動を強制するということはありえます。

「産休に入ります」と文字にして渡すと、出産頑張ってね、良かったね、と言うしかなくなる。それは祝福や労いの強要ではないでしょうか。何もプリントのないクッキーだと気持ちは違うと思います。

[対処法] 全ての人に祝福を求めるのはやめる

産休クッキーの投稿者は、全ての人に祝われようとはしていません。あのクッキーも、特定の親しい人に配ったようでした。しかし、Xにアップしたのは、クッキーを肯定的に捉えてもらえるだろうという気持ちがあったのかと思います。「否定的な意見をたくさんもらおう」と思ってSNSにアップしようと思う人はいないと思うので。

産休クッキー投稿者というよりは、産休クッキーに否定寄りの意見をしたアカウントに「素直に祝えないのか!」と言うアカウントの人ですね。全ての人が幸せな人を祝福するべき、という考え方はどうしたって無理でしょう。祝福したい人としたくない人がいる。したくない人まで祝福をせざるを得ない状況に追い込む方が不自然だと私は思います。

[問題6 ] 産休を不快に思う人は多い

今回の騒動で、「産休そのもの」へのバッシングも多く見られました。産休は迷惑、ということですね。これに関しては私の想像以上で、そう考える方が多くいることを知る、良い機会となりました。

私はもし幸運にも子供に恵まれたら、産休と育休をとって、その後仕事に復帰したいと考えています。ですから私もそのことを「当然」と感じてしまっていました。しかし、残された職場の人にとってはたまったものではないのだということを実感させられました。

私は昔非常に仕事ができて、仕事の面で非常に尊敬している上司がいたのですが、先輩が産休に入る直前で(だから私が雇われたところがある)、
「オムライスさんは産休とらないでね」
と正直すぎる本音を言われたことがあります。

その上司には2人の子供と専業主婦の妻がいます。自分は子供を持つ幸せを享受し、部下にはその幸せを持つな、と言っているのです。仕事はすごくできる人で、最近大分出世したみたいですが、人間としてはかなりのクズだったんだなあ、と振り返って思います。

私は自分が子供が欲しいのに持てないから産休クッキーにこころを揺さぶられました。ですが、働く人間として、同じチームの人が産休に入った時、とても大変なのに、自分が主役、といったようなクッキーを配られたら、と考えるとそちらの立場でももんもんとするだろうな、と気づきました。

今までいろいろな職場で産休に入る人を見ましたが、クッキーを配る人はいなかったはず。みなさんスッと産休に入っていました。だからこそ今回の騒動の発端の投稿に「え!?」と私はびっくりしたのでしょう。

[対処法] 産休を誰かのチャンスに変える

産休問題についてはかなり多くの要素を含んでいるので、この記事で考え尽くすのは難しいです。なので、ちょっと変な方向からのアイディアを書きます。

私は20代30代のほとんどを非正規雇用で働いていました。経歴の空白が長く、書類選考で不採用になることがほとんどでした。そういう場合、産休に入る社員の欠員を産めるための短期の仕事の募集では何度も採用されました。つまり、産休が私のキャリア形成のチャンスになったのです。なので私は産休に感謝するところが多いです。

政府規模でこれを利用してくれないかな〜と勝手に考えています。産休社員がいて穴が開く職場で、短期で人を雇った場合の補助金を潤沢に出すとかどうでしょうか。会社にとっては産休で人手不足になるしんどい面を埋められるし、産休で休む人の罪悪感も減り、職歴が少なく困っている人は職歴を増やせる、そんな一石三鳥の状況を作るのはどうでしょう。

もちろん新しく入ってくる人に仕事を教えることは労力なので、産休に入る人が直接仕事の引き継ぎをできたらベストでしょう。ちょっと理想論すぎるかもしれませんが、私はこのやりかたは結構いいんじゃないかと思ってます。

[問題7] 「職場でお菓子を配る」の是非

産休の是非にまで議論が進んだところで、そもそもの「何かあると職場にお菓子を配る」という文化自体はどうなんだ、と思います。

多くの職場で、旅行に行ったとき、長期休みをもらったとき、退職時に人数分のお菓子を配ることが習慣化されています。そして私が大嫌いな「職場のバレンタイン」というものもあります。そもそも、この文化は必要なのか、というところまで考えなくてはいけないと思います。

[対処法] 「ご自由にどうぞ」がベストかと思う

私は自分で甘いものは買いません。日常でほぼ甘いものを食べません。少し食べると歯止めが効かなくなるほど甘いものが好きなので、制限しています。そこで職場の全員に配られるお菓子があると、もともと甘いものが好きだから食べてしまう。自己嫌悪。配られないのが一番だと思います。

しかし、お菓子を買って誰かに食べてもらうのが幸せな人もたくさんいるのは事実。そうであるなら、もらわない自由もある。職場の給湯室に「ご自由にどうぞ」とポストイットを貼って箱ごと置いておく、というのが、食べたい人はもらい、いらないひとは貰わずにすむ、最善の策かと思います。

バレンタインだけは撲滅してほしいと思う。私は大体職場に一人はすごく嫌いな人ができるのですが、その人にも私のお金が渡ると思うと、非常にイライラします。心が狭いのはわかっています。

昔、そのことをドイツ人の英会話教師に愚痴ったことがありますが、「お金出さなきゃいいじゃん」と言われました。自分のしたくないことはしない、という発想がありませんでした。まだできてないけど、そういう機会があった時は断ろうと思えたら、すごく心強く感じたことがあります。

ということで、配りたい人が配れて、受け取りたくない人が受け取らずに済む、「ご自由にどうぞ」方式をどんどん採用して欲しい。ただ、産休クッキーを「ご自由にどうぞ」はかなり変な感じになりそうで、難しいところです。

まとめ: 「産休クッキーを配ること」×「SNSにそのことを投稿すること」の破壊力

ここまで書いておいて、「産休クッキーを配ること」自体はそこまで他人からとやかく言われる行動ではないと思います。一個人が好きでやったことであり、反応するのは数の限られた職場の人だけだったはずです。それをSNSに載せると、これだけの反応になることもある、というだけのことなのでしょう。

誰もが、普段の自分の言動の中で、SNSに載せたら炎上してしまうようなものを持っていると思います。それをいかに上手に隠すか、というゲームになっているのかもしれません。そのゲームに失敗した人は、とことん注目されてしまう。「私は頑張って抑えているのに、あなたは失敗したね」と。

今回の件では、SNSのいろいろな面を改めて見ることができたと思います。そして、なぜここまで騒ぎが大きくなったのか、そしてどんなSNS利用が望ましいのかなど、更にいろいろ考えたくなったので、まだまだ考えていこうと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?