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怪異に親しむ、怪異になる

はじめまして。OMU世界史同好会のおばけと申します。幾重の夜をくぐり抜けておばけになってしまいました。

自己紹介


少し自己紹介をば。世界史同好会では渉外を務めております。大学での所属は文学部、今年から日本史コースに所属しています。出身は八王子というところなのですが、かねがね中世の歴史をやってみたいと考えておりまして、市大文学部に入学しました。今のところ、荘園とそれに連なる流通経済に興味を持っています。その点もいつかご紹介できればいいなあと思っています。

趣味と言うと大それたものもないのですが、街歩きは昔から好きです。その都市の歴史と地理からテーマを捻り出して順繰りに巡っていく、博物館があれば尚良し、そんな感じで街歩きをしています。ほんとうは、noteの記事にしようと思っていたのですが、春休みは香川に行ってきました。(うどんって素晴らしいですよね…)徳島に高校の知人がいたのです。あと、SHE’Sというバンドが好きです。

さて、前置きはこれぐらいにして、本題の「怪異」について話を進めましょう。幾ばくかおつき合いください。

怪異に親しむ

はじめに皆さんは「怪異」と聞いて何を思い浮かべるでしょうか。鬼や河童、あるいは狼男や妖精のように化け物をイメージする方。夜中に爪を切ってはいけない、というように迷信をイメージする方…などなどいろいろあると思います。手元の新明解を繙きますと、「㊀その時代の科学知識では説明の出来ない、不思議(なこと)。㊁化け物。」とあります。

私は幼いころ『妖怪レストラン』シリーズや水木しげるの漫画などを読んでいました。あるいは、暗い二階へと上がる階段、校舎のはずれの方を漠然と怖いと思うこともよくありました。今はそうそう「怖い話」に怖がることもないのですが、感覚のレベルで、自分の中に「怖い話」の考え方が残っていることによく気づかされます。こうした感覚は、多かれ少なかれ皆さんも感じたことがあるのではないのでしょうか。その意味では、自然や神への怖れも広い意味では怪異に対する感覚に含まれるはずです。この怖れ・怪異というのが本稿の一テーマです。

「怪異」と民俗学

怪異は「科学知識では説明できない」。その概念を打破し、怪異(主に妖怪)を科学的に説明しようとしたのが井上円了です。井上は妖怪や化け物の現象を合理的に解釈しようとしました。その中で妖怪とされてきたものに、実怪、虚怪…と分類を施しています。このような研究はある意味で、妖怪を軸に前近代と近代を峻別する試みでした。一方、その後の妖怪研究には歴史学・民俗学的な視点が導入されたといいます。小松和彦はそうした経緯を概観して、江馬務と柳田国男の名前を挙げています。小松(2001)によれば、江馬は、井上が撲滅の対象とした妖怪に注目し、歴史的考察物として再び光を当てたといいます。また、柳田は昔の人は妖怪をいかなる理由で必要としていたのか、考え方や論点を提起したといいます。

柳田国男が出てきました。柳田の著作を私はほとんど読めていないのですが、最近話題となっている、菊池暁『民俗学入門』の序章に取り上げられています。私も不勉強ながら少しく民俗に心を寄せる端くれとしてこの本を読みました。本書の序章では、大阪・懐徳堂での柳田の講演を引いた後に、「人々の来し方行く末を、身の回りの生活事実から見つめ直すという民俗学のスタンス」(p.11)を述べられています。(懐徳堂の系譜は大阪大学が引いているので、適塾かどちらか公大に分けてくれよと思いつつ、)まさに自分がぼんやり考えていることに形を与えてくれるものでしたので、大きな刺激を受けました。

都市化

では、「来し方行く末」を考えるうえで、怪異はどのように絡めることができるのでしょうか。個人的にはテーマがいっぱいあるのですが、2つだけ紹介させてください。

一つ目は都市化という点です。おおよそ近代以降の日本は、都市と農村というくくりで語られることが多く、それは現在でも変わりません。ちょっと農村と怪異の関係性に目を向けてみましょう。農村に注目すると、それは旧村が数村ごとにまとめられて行政村となり、行政村、それと町が次第にまとめられていって、町や市が形成されていくという段階を踏んできました。先ほどの井上円了の話に回り道すると、井上が多くの論考を発表したのは、20世紀初頭の前後です。そう考えると、行政村が誕生した町村制施行以降の日本社会は、まだまだ妖怪が健在だった時期と言えそうです。地域の歴史に話を戻すと、都市化は他地域との関係がだんだんと強くなっていく過程を表しており、それはそのまま怪異が存在感を失っていく段階と位置付けることも可能かと思います。とはいえ近代—20世紀初頭は、田園都市の概念が国内にも移入されはじめる時期なので、近世以来の村々の区分けを超越したり、新たな開発によって旧来の環境が激変するような都市化は進んでいませんでした

そうした状況が一変したのは、(よく言われることなので陳腐ですが)やはり高度経済成長です。大阪や東京といった大都市にそれ以前よりも多くの人びとが集まることで、住居需要が増えて様々な開発が行われました。そして、殊に近郊と呼ばれる地域では、その開発は祭礼や自治を担ってきた村々の秩序を変容させる契機となりました。ここで私は、人々と自然との関係性の変化に注目したいと思っています。その最たるものはニュータウン開発でしょうか。冒頭に述べたように私の出身は、多摩ニュータウンを抱える八王子というところです。そしてわがまちの歴史・地史を知っていくことが、このほど都市化というテーマに関心を抱くきっかけとなりました。金子淳『ニュータウンの社会史』に詳しい、その多摩ニュータウンの形成を参照すると、旧来の農村が宅地に転換され、景観も大きく変わったことが示されています。そうした中で、自然と付き合いながら生活してきた人々はどう考え、あるいは移住者の人々がどのように社会に入っていったのかというところが注目ポイントです。そして、山川藪沢への怖れの具象として存在感を放っていた怪異がどのように退潮していったのかについても考えるに値する問題ではないでしょうか。

ここで、以上を考えるにあたって面白かった文献を紹介します(唐突)。阿部謹也『ヨーロッパ中世の宇宙観』という本です。本書は題名の通り、中世ヨーロッパ民衆の宇宙観・世界観についての論考です。超絶おおざっぱに要約するとすれば、小宇宙と大宇宙の関係性でしょうか。それを明らかにするために、ハーメルンの笛吹き男の伝承や、差別事象などから検討を加えています。これをそのまま日本社会に当てはめることには慎重になるべきですが、ともかくとして夜は怖い、身の回りの世界の外が恐ろしいというのは一般的な感覚な気がします。神隠しに遭っちゃいそう。もし天狗だったら連れていかれて菅田将暉になっちゃいそう。源義経のイメージはやっぱり神木くんですけど。日本の「世間」にも関心を寄せていた阿部謹也のことですから、『世界観』の諸論考の中にも現代への問題意識が多く投影されているはずです。そして日本的な文脈で検討すれば、そうした民衆の「怖れ」を伝えているのが、怪異やその伝承なのではないでしょうか。

都市化からずいぶん横道に逸れてしまったのですが、先日印象的な出来事がありました。心理学系の講義を受講していたときのことです。心理学っぽい講義で、その日は刺激と反応がテーマだったのですが、動画の中で幼児に動物と触れ合わせるシーンが出てきました。これって今やったら問題になりそうな実験やなあ、と見ていて思ったのですが、これは「怖い話」にも援用できそうだなあと感じました。幼児期や学童期の「怖い話」の伝達が、子どもの、それも共同体の一員としての子どもの感性に与えうる影響は大きいのではないかと思います。

今でこそ我々は、怖い話を聞いても、どこか陳腐に受け取ってしまいがちです。そして、怪談などは成立した当時の文脈とは独立して我々に届きます。しかし、闇夜や自然に潜む怪異の濃い時代に、怖い話や昔話は、空想力が働く子どもならではの作用があったのではないかと思うのです。翻って現代に視点を移すと、核家族に代表されるように、家族や地域社会の在り方が変容してきた数十年来の進展を受けて、「怖い話」が広がる現代的な特徴があるのかどうかも気になるところです。

あっあっ、そういえばヘッダーの画像は兵庫県は福崎町に訪問したときに撮影したものなのですが、このように妖怪が畏怖の対象から、文字通り「親しみ深い」存在になっているのも印象的です。「来し方」だけでなく「行く末」を考えたときに、妖怪・怪異がコミュニティの中でどのような役割を持つのか(この場合は町興しのシンボル)にも注目していきたいです。

なんか一つ目がめっちゃ長くなってしまいました。残りはサクサク行きましょう。

怪異になる

二つ目は、祝祭性という点です。お祭り楽しいですよね。露店の並びをみるとテンション上がります。そうした祭りですが、古くから変身が行われる場所でした。祭りのあいだは上下関係がいったん無視されるなど、人々がひと時の娯楽に興じる場でもあったようです。翻って最近に目を向けると、変身がしやすい時代だなあとひしひしと感じます。ハロウィンは言うまでもないですが、日常生活の自分と趣味の自分を切り替えたり、梅田に繰り出してみたり、あるいはTwitterで猫を被ってみたりと、ある意味で現代は祝祭性が拡張している世の中と言えるのではないでしょうか。エンタメやSNSも日々発達していて、多種多様なアイドルやロールモデルが溢れています。そして、インターネット特有の匿名性も特徴的です。これこそがまさに「怪異になる(orなれる)」という側面です。現代は、怪異を怖れる時代ではなく、怪異になってしまう時代なのではないでしょうか。

その意味では、私も皆さんもなにかに化けるきっかけがあるはずです。私の場合は、ある朝、グレゴール・ザムザがなにか気懸かりな夢から眼をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な毒虫に変っているのを発見しないためには寝ないのが一番、というわけでおばけになってしまいました。外に出てみれば、例えばユニバなんかでは食べられかけの人びとをよく見ますが、他にもSNSを覗きながら、赤の他人を「すごい」と思ったり、はたまた「印象と違うね」と思われることもしばしばです。そうした特徴を検討して、現代社会・ネット社会を生きる我々の行く末を考えてみることもできるのではないでしょうか。

おわりに

なんだか尻切れトンボになってしまいました。というか同じことを既に誰かが書いてそう()。

阿部謹也を紹介したところと関連して、宇宙=世界は並立しているものです。思えばこの世界史同好会も、人の営みあらば歴史ありの姿勢で、日本と海外とを隔てることなく活動しています。そして身近な世界を見てみると、私たちの世界のごく近くには怪異の世界がある、ということがなんとなく実感されるのではないでしょうか。

そんなこんなで、みなさんが親しんできた、あるいはなってみたおばけについて知っていることがあったら教えてください。末筆ながら、長々とおつき合いいただきありがとうございました。他のメンバーの記事もぜひぜひ読んでみてください。

また、せかどう入会希望の方はいつでも受け付けておりますので、Twitter、Instagram等々もご覧ください。それでは失礼いたします。


〈取り上げた文献〉
・新明解国語辞典
・松谷みよ子責任編集『幽霊屋敷レストラン』童心社、1996年
・小松和彦「井上円了の妖怪学とそれ以後」井上円了著 ; 東洋大学創立一〇〇周年記念論文集編纂委員会編『井上円了選集 第21巻』pp.449-463,2001年
・菊池暁『民俗学入門』岩波新書、2022年
・金子淳『ニュータウンの社会史』青弓社、2017年
・阿部謹也『中世ヨーロッパの宇宙観』講談社学術文庫、1991年


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