第七回 あいるらんど
汽車に乗って
あいるらんどのやうな田舎へ行かう
ひとびとが祭の日傘をくるくるまはし
日が照つても雨のふる
あいるらんどのやうな田舎へ行かう
窓に映つた自分の顔を道連れにして
湖水をわたり とんねるをくぐり
珍らしいおとめの住んでいる
あいるらんどのような田舎へ行かう
(丸山薫「汽車に乗って」)
ごきげんよう、沓颯です。
上は詩人丸山薫が1927年の6月に発表した「汽車に乗って」の全文です。合唱曲になっているため、耳にした覚えのある方もおられるのではないでしょうか。
この作品で最も特徴的なのは、やはり「あいるらんど」という平仮名表記でしょう。その字と音の持つ柔らかさは、作中で一貫してうたわれる「田舎」的イメージを表すのにぴったりです。また、語り手が普段生活している都会とは正反対の土地であるという、ある種の異郷感も醸し出しています。
2行目の「ひとびとが祭の日傘をくるくるまはし」からは、日傘をくるくる回すようなゆとりと遊び心のある、陽気な土地であることが伝わってきますね。
3行目の「日が照つても雨の降る」は、実際のアイルランドの気候を表しています。天気がとても変わりやすいところで、「Four seasons in one day(一日のうちに四季がある)」と言われるほど。
後半に入ってからは少し雰囲気が変わります。6行目「窓に映つた自分の顔を道連れにして」ということは一人で旅行しているわけです。「行かう」と呼びかけている割には孤独な旅ですね。
7行目「湖水をわたり とんねるをくぐり」は、車窓の風景です。遠く遠く、汽車に揺られて田舎に行くのです。
8行目「珍らしいおとめの住んでいる」では、2行目の「ひとびと」ぶりに人が登場します。「珍らしい」とはどういう意味なのでしょうか。都会にはいないようなおとめ……見た目なのか気性なのか、どういった珍しさなのかは定かでありませんが、語り手はもう都会のおとめには飽きてしまったのでしょう。
作者はなぜ田舎に行きたいのか。理由は様々考えられますが、僕は「失恋」ではないかと思います。前半部で語られる陽気がむしろ後半部で語られる孤独を強調していること、「珍らしいおとめ」を探しにいくこと、「行かう」という呼びかけの相手がいないことを思えば、都会のおとめとの別れから、都会そのものにも離れたくなってしまった語り手の姿が浮かんできます。
そして、そんな場所は、語り手が求めるような「田舎」は実在しないのかも知れない。そもそもアイルランドには汽車では行けないし、どことなく漂う異郷感と、「行く」ではなく「行かう」という呼びかけにとどまっているところからはそんな風にも思えます。また、あいるらんどの「ような」としていることもこう考える理由の一つです。語り手が行きたいのはアイルランドではないのです。語り手が希求するのは語り手の脳裏に浮かぶ理想の田舎、描かれてこそいないものの、行間に秘められたその情景は「あいるらんど」という6文字に結晶しています。
こう見ると萩原朔太郎の「ふらんすに行きたしと思えども」にも通ずるところがあるようですが、またそれは次の機会に。
僕がこの作品を知ったのは作家恩田陸のエッセイ「酩酊混乱紀行『恐怖の報酬』日記」というイギリス・アイルランドの旅行記を読んだときなのですが、この本も実に面白いのでおすすめします。
飛行機嫌いの著者が初めて海外旅行に行ったときのお話で、イギリスとアイルランドの風土や料理などのエピソードが盛りだくさん、するすると小説のように読めてしまうところは流石直木賞作家といったところです。
残念ながら絶版になっているのですが、図書館にはあるのでぜひ借りて読んでみてください。
では今回はこのあたりで。皆さんごきげんよう、また何週間か後にお会いしましょう。
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