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小説の「」は重要じゃない

本がすきだ。
自分じゃない他人の世界に入り込める、
その人の人生を知ることがみることができる。
ときには自分の感情と重ねて共感してみたりもする。

こんなにも仕草や感覚を言葉にする事が美しくて
自分の記憶がどれだけ儚いのかが文字にするかしないかで
変わるものなのかと改めて感じる。

私が本を読む度に感じてた違和感について話す。
今や、SNSの本文に人気ロックバンドの歌詞や
ベストセラー入りした本の「」の台詞が書かれる時代だが
なんて言うか、それってなんかなんとなく当てはまるなって
思う言葉であって「リアル」だけど「自分」の体験とは
また一枚壁を挟んで共感してるような気がしていて。
登場人物の言葉なんかよりもあの瞬間の仕草や情景が
1番震え上がる記憶で感覚的に思い出すものだと私は思う。

だってドラマや映画の伏線回収って大体思い出の場所や
あのときの仕草とか言葉にしてないその瞬間じゃない?

例えば友達ととても盛り上がって楽しかったあの会話、
日が経つにつれ2割も覚えていないし人に説明もできない
そんな状況と同じなんだと私は考える。
言葉に表せない瞬間的な表現。

説明できないけどなんか"いいね"と言うその発言は
とても無責任で誰にでも言える量産的なワードだ。
寒い日の人混みで匂う甘ったるい香水の匂いみたいな、とか
何かを想像させるキャプションが添えられてないと
あぁ人に自分の意見を言えない人間なんだなと思ってしまう。

小説に書かれるあの登場人物の心情やその場の情景は
私が言葉にできないあの"例え話"がきちんと
1から100まで言語化されてるから救われる。

どちらが遠くに石を飛ばせるか競った豪雨直前の海、
蝉の鳴き声で起こされた君の布団をかけ直す細い腕、

私が言葉にするんじゃダメで、やっぱり本をつくる人が
言葉にしてくれるからあの瞬間を思い出して愛おしくなる。

写真機に残ってるあの瞬間を見てしまったらそりゃあ
記憶から引っ張り出されるけれど、記憶を辿って
言葉にするのってその何倍も難しくて凄い事だと思う。

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