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最愛は海色 第13章

海に注ぐ夕日は私とあなたの輪郭をあいまいにした。
秘密の場所なんてない。だれかの思い出が入り混じる海辺で、今だけはふたりきりだった。
すっかり水温は下がりきっているというのに、優多さんは海水に足を浸し夕日に顔を向けたまま、私に別れの言葉を言った。
覚悟をもった重みのある言葉は、夕日の届かない海底へと沈んでいくようだった。

「四月になったら上京する」
なにを言っても優多さんが揺らがないことは分かっている。
だから、優多さんは冬が終わるまで口をつぐんでいたのだ。けれど私は、あなたともっと一緒にいたかった。
「ここでも写真は続けられるのに、東京に行かなければいけないんだよね」
「うん」
「私には分からない。分からないけど、尊重しようと思う」
夕日が沈むまで見届けるにはまだ肌寒い。人肌が恋しいのは気温のせいだろうか。
「大事な時に表情を見せないあなたは、とってもずるいね」
こんな時ほど、私はあなたに触れたいのに。

またいつかという言葉はかえってお互いを苦しくさせる。
優多さんには優多さんの人生があって、私には私の人生がある。
お別れのタイミングがきたことを悟った。どんなに好きでも、気持ちだけじゃ解決できないことがいっぱいある。
この瞬間がくることを、ずっと前から覚悟していたはずなのに。
引き留めたい。困らせたい。ついていきたい。
エゴに満ちた想いが溢れかえって、言葉になりそうだった。感情が邪魔で、けれど思い出ばかり蘇る。

なにをするでもなく、この街と一緒に思い出を作った。
種市までの海沿いの道を、くだらない話をしながらドライブしたり、種差海岸の芝生で弾き語りをして聴かせたりした。
撮りためた写真を印刷して、ふたりでアルバムを作ることもした。優多さんはいっぱいシャッターを切るから、選別が大変だった。「瞬間を撮り逃すことのほうが怖いから」と言っていた。

「帰ろうか」
優多さんがはじめて振り返って、いつもの笑顔でそう言った。だから私も、ふだんどおり隣を歩き、車に乗った。
乗り慣れたこの車で助手席からあなたの横顔を眺めるのも、今日が最後となるのだろう。

「着いたよ」
ほんの一瞬、一秒にも満たない時間、優多さんの左手を両手で強く握りしめた。いろいろな想いを、その瞬間に託すかのように。

どうか元気でいてね。
あなたの写真を楽しみにしています。
たくさんの人と会って、たくさんの経験をしてください。
たまには私のことを思い出してね。
ソフトクリーム美味しかった。
あなたの寝顔を眺めることが好きでした。
私はこれからも歌い続けるよ。
あなたのことも歌うよ。
大好きでした、ありがとう。

優多さんを解放するかのようにそっと手を放して、感情が涙となって出てしまう前に車のドアを開けた。
「じゃあね」
短く言って、ドアを閉める。
バタンと音が響いて、別れを実感した。
車内でうなだれる優多さんの姿が見えた。抱きしめたい気持ちを抑えて、家の方向へと走る。
涙はとうに頬を伝っていた。

泣き腫らした目を冷やすために部屋の扉を開けると、夕飯の匂いが鼻をかすめて再び涙腺が緩んだ。
私はまだ親元を離れられない子どもだ。
優多さんは春からひとりで、東京という場所で生活を送る。歳はふたつしか違わないのに、私達の間に広がる距離を感じずにはいられなかった。

外はまだ夜になりきらない曖昧な色に包まれていた。
いてもたってもいられなくて、もう一度外へと飛び出した。海まで続く細い下り坂を、駆け抜けていく。
立ち止まって、あたりを見渡す。
セメント工場の煙と怪しく光る踏切が、暗闇に染まろうとする景色の中で変に明るく浮かんでいた。海は遠くに、気配だけを感じる。

眼前で広がる景色を、好き嫌いの物差しだけで語ることはできない。
私が生まれ育ったのは、思い出すのは、この街で、その事実は変わらない。この街に抱く感情は血縁と少し似ている。
私はこれからも、この街で暮らす。だから、いつでも帰っておいで。
けしてあなたに触れることのできないこの街で、あなたのことを想い続ける。

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