ちょうどよく知れない2
知れば知るほど、割を食う。
今ある持ち物で、のほほんと幸せに生きていればそれでいいのに、その幸せをわざわざ分解してじっくり考えるのは、エネルギーのいる作業だ。
でも、私にとっての他人が誰かの大切な人であるかぎり、自分が満たされていても、自分の幸せと関係がなくても、知らないといけないときもある。
自分が当事者になったタイミングで知るのでも、いいのだと思う。でもいざ当事者になったとき、周りに味方や自分の声を拾ってくれる人がいた方が、きっと心強い。
だから自分に関係がなくても、なるべく同じまなざしで知ろうとする。そうすると、ますますエネルギーを持っていかれる。
でも、なんでこんな自分ばかり心削ってるんだろう、意見を言うことにすらビクビクしないといけなくて、どう思われるか不安で、それで眠れなくなったり落ち込んだりして、損してる、と思ってしまうときがある。意見を言うだけでたいして理解しようともしないで、危険な人だと距離を置かれることもある。
波風立たせないことがいちばんいいってことは生きていてなんとなく肌で分かるんだけど、その理由をずっとずっと、理解できない。苦しい。
(知ることって広げているようで狭めているのかも。許せていたことが許せなくなって、それは求めていた理想とは異なってしまう。だから波風立たせない方がいいのかな。うーん、まだ腑に落ちない)
そうなってくると、私はとんでもないことを考える。
世界がわたしと同じくらい考える人だったらいいのに、て。
これはもう、本末転倒である。たどりついてはいけないところである。
優生思想だ。
平和って、他人の幸せも願うことで、その他人って、良い人も悪い人も含めて、みんなが入ってないといけないのに。
ここまで考えて自己嫌悪で、ひとりでぐるぐる回って大変である。いよいよ疲れてきた。
声を躊躇したくない。
他人に引かれたくない。
心を削りたくない。
他人を差別したくない。
ぜんぶほんとうで、うまくいかない。
うまくいく日は、きっと来ない。
でも絶望という言葉に頼って、思考停止はしたくない。