魂というのは、おもに3つに分かれているらしい。知性と意志と感情である。これは対立する相手があってのことで、相手に対して立ち位置をしめすときに、主知(または意・情)主義だと表す。
だからこれといった基準がなく、ヒトによって微妙にちがう意味合いになっていることもある。そもそもギリシャ語から日本語に変換する過程で、変わってしまっている可能性だってある。これについてはまた後ほど。
ソクラテスは、なにが善でなにが悪か、なにが美でなにが醜かを正しく知れば自分の魂は磨かれると言い、知はもっとも優れたものとしている。この考え方を主知主義というわけだ。
ただソクラテスというヒトは、あまりにも主知主義すぎて、ヒトの感情というものについて無頓着であった。知の探求は大事なのだけれども、そのためにいろいろなヒトと議論を重ねて、相手の無知を衆目に晒してしまうのだね。
そのいってしまえば”相手をバカにするワザ”だけをマネる若者が出てきてしまった。相手をバカにして自分を高きに置きたいというのも、バカにされて悔しいと感じることも、どちらも情の為す業なわけですよ。
知はもっとも優れたものであるのはたしかなのだけれども、情にたいする配慮というのもするべきであった。そうすればあのような最期をむかえることもなかったのかなと。
まあソクラテスにとっては、そのようなものは瑣末なことであり、そのようなことをするぐらいなら、肉体を捨てて魂だけになる方がマシだというだろうけどね。そうソクラテスにとっての”死”というのはその程度なわけです。
今日のところはこれまで。ごきげんよう。
この呼吸がつづくかぎり、僕は君のそばにいる。
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