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しにたい夜に

 毎夜ごとに死にたくなっているんだ、とこぼしてしまったときの友人の返答は想像とは違っていた。彼は当たり前のように、ただ事実を告げるような調子で「死にたくない夜なんてないよ」と言った。「少しだけ死にたい夜か、今すぐにでも死んでしまいたい夜しかない」言葉にしてみれば過激に思えてしまうが、その言葉で彼は僕に納得と安心とを分け与えてくれた。

 だいたい、人生とかいうのはろくなものではない。普段はそれに気が付かなかったり見て見ぬふりをしているわけだけど、そのことを直視してしまうこともある。大抵それは頭のよく冷えた夜の遅い時間にやってきて、少なくとも一晩は僕の脳内をうろついているままだ。そんなとき、僕はいい音楽を聴くとかいい文章を読むとかして気を紛らわしているわけだけど、最終的には薬に頼って眠ってしまうことも多い。吹雪の中で一人立ち往生するようなことになってしまってはかなわないからね。

 そういうわけでこの頃の僕は、夜更かしをして眠たいときと、薬が残っていて眠たいときとの二つしかない。しゃっきりしている暇というのがほとんどないんだ。天敵のいない島で育った動物たちみたいに、のそのそ動いてなんとなく日光を浴びている。有り余る日中を間延びした時間の中に捨て置いて、引き換えに焦燥感とともに夜を過ごすってことだね。あまり健康にいいとは言えなそうだ。

 毎晩しにたい友人の方がどう過ごしているかということについて、僕はほとんど知らない。多分これを読む人と同じくらい知らないと思う。それじゃまったく知らないことになってしまうな。いやまあ、それでも間違っていないけど。普通に生活していたら彼に会うことはないと思う。人間離れしているってわけではないけど、彼はあまり家から出てこないし、外出先だって人の寄り付かないところばかりだ。人気のない商店街の中にひっそり残った公園だとか、駅から遠い方の河川敷とか、つまりは寂しげなところが好きなんだな。僕らと同じくらい寂しいところが。

 彼が好きな場所の条件について、少しだけ分かることがある。これも長い付き合いのおかげかもしれない。まず一つ目に、自動販売機が近くにあること。売ってる飲み物のラインナップにはこだわりはない。キリンでも、コカ・コーラでも自動販売機ならなんでもいいみたいだ。彼は自動販売機が好きらしい。「いつ来るかもわからない人のために飲み物を冷たく、もしくは暖かく保ち続けるだなんて、どんな機械よりも優しいよ」とのことだ。そう言われればそうかもしれないけど、もっと優しい機械もあるんじゃないかと思う。

 二つ目は、腰かけられるものがあること。彼の話は、立ち話にはまったく向かないからね。ベンチじゃなくても、階段とかでもいい。とにかくゆっくり話ができる場所があれば、どこであれ彼はそこを自身の居場所とすることができた。どんなところでもくつろぐことができるのは(そして、一緒にいる人間をリラックスさせられるのは)彼の長所と言って差し支えないだろう。

 最後に、お互いの表情が見えないくらい明かりが少ないこと。自動販売機の明かりだけでもいいくらいだ。なんでも、彼は言葉を最優先したいらしくて、相手の表情が見えてしまっては気が散ってしまうということなんだ。人が嫌いだとか、表情が読み取れないとか、照れ屋だとかいうわけではない。言葉は不完全だけど、それに対して真剣に向き合うことはやめたくないんだって。

 この前彼と話をしたのも、そんな条件を満たす場所だった。海沿いの駐車場、車は一台も入っていなくて、3本ある街灯のうち2本の電球は点滅を繰り返している。その駐車場から海沿いの防波堤へ続く道の途中にあるベンチに座って、彼と2,3時間話をした。最近の生活から、未来に向けた夢のない話、どれだけ暗い話をしても楽しめてしまうのは、二人とも性格がひねくれているからかもしれない。帰り道のことも、明日のことの心配もしない。そんなものは将来に対する不安と比べればささいなことだからだ。将来に対して不安があるからといって僕たちはじたばたしない。どうしたって無駄だということを理解しているからだ。僕たちは、最も後ろ向きな方法で各々楽しい時間を過ごしているみたいだった。

 夜に死にたくなるのは、仕方がない。だいたい眠るという行為が死ぬことに似ている。明日同じように目が覚めるか分からないのに意識を手放すなんて、ほとんど賭けみたいなものじゃないか。偶然今までは目が覚めていたけれど、次はないかもしれない。僕たちはそのことを薄々理解しているから、夜に死にたくなってしまうのではないだろうか。眠気と希死念慮をうまく混濁できなくなったときに、はっきりと死ぬことだけが脳裏に浮かんでしまうのではないか。そうしてそれを消すことができるのは、疑似的な死である睡眠だけ。

 こんなのは詭弁だって分かっているけれど、僕たち二人はそうしないと夜を越えられそうになかったのだ。お互いに冗談めかしながら、薄目で死を直視しながら夜を耐え忍ぶために、あの会合はあったのだ。僕は彼の現在を知らない。未来も、過去もほとんど知らない。知っていることは、君たちにすべて伝えてしまった。もしも彼にあったら言っておいてくれ。僕は僕なりに死にたい夜を過ごしているよって。

 

 

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