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【エッセイ】 歩きスマホ

朝通勤するとき。駅に向かうとき。信号が変わり、歩き始めてから。

ほとんどどこでも歩きながらスマホを操作している人を見かける。その度になんでやるんだろうと疑問が生じる。しかし考えてみると案外単純なことなのかもしれない。

 人間は動物として常に自分という身体外の情報にアクセスしている。それは自分の身を守るためでもあるし、何かしらの機会を探るためでもあったりする。生きていくための生存本能のような、無意識的な、もっと言えば当たり前の活動である。そしてそんな活動のことを意識すると、それは動いているとき、止まっているとき、話しているとき、寝ているとき等ほとんどすべての状況において行われていると気づくことができる。そして獲得している情報は、看板の文字、建物のコンクリートの状態、色などの視覚的な情報だけでなく、歩いている地面の状態、風の強さ、パン屋の匂いなどの情報も含まれ、それらは五感的に感じ取ることのできる情報たちである。変に意識をしなくてもこれらの情報を私たちは獲得することができるし、そしてそれが何かということも過去のデータベースから洗い出すことができる。もし分からないことがあればその情報には他のものに比べて注意が引かれ、危険がないか、役に立つか、そもそも何か等の分析を始めることだろう。そしてその情報の正体が分かると警戒したり、安心したり、どう使えるか考えたりして何かしらの満足度や成果を得ることになる。つまり、情報へのアクセスは当然に起こることであり、そしてそれを獲得することはたとえ分析を行わまいと満足度や何かしらの成果を与えてくれると認識できるのである。

 さて、スマホには何があるんだろうか。まず思いつくのは文字情報だろう。ニュースの記事、SNSなどのメッセージが思いつく。それに色や音などの五感を刺激する情報は特段注意を引く気もする。テレビ番組、動画プラットフォームに投稿されている動画、漫画などが思い当たる。周りの人たちを覗き見ると、何かの動画を見ていたり、ニュースを見ていたり、SNSでやり取りをしていたりといった状態が多いように感じる。わざわざ歩きながらすることでもない気もするが、しかし、彼ら彼女らはその瞬間瞬間に情報を獲得し、満足度を得ていたりや情緒的変化を楽しんでいたりするのである。つまり、歩きスマホは、人間として本能的に有している情報獲得能力を達成しているとみることができるのである。

 しかし、もちろん情報獲得を達成しているだけであって、その情報が動物的生存の可能性を高めてくれるかというと疑問が残る。情報を獲得する行為は、様々な部分に意識や注意が向くからこそ、今いる状況について理解し、生き残るための行動をとりやすくしているのである。歩きスマホは確かに情報を獲得しているとはいえるが、それは集中的な、超意識的とでもいえるような情報収集であり、決して分散的な情報収集とは言えない。だからこそ、他の人とぶつかったり、こけたり、電柱にぶつかりそうになるのである。歩きながら何かをする、特に情報をインプットするという活動を私たちは得意としている。それは再三言う通り、今を生き残るための周囲の情報処理が本能的に必要なことだからである。それだからこそ、慣れている、当たり前の行為であるからこそ、私たちはできると思い、思い込み、そして実際になんとなくできてしまうからこそ、実害が及ぶ前になんやかんやで回避を可能とし、時にそのリスクを楽しむことができてしまうのである。

歩きスマホは人間としての生存戦略に則った活動であるといえるが、その行き着く先は全く違い、しかし、当たり前の活動であるからこそ多少の苦難が待ち構えようと常態的にやってしまうのだろう。そこら辺にいる歩きスマホ人は恐らくそんなことを考えているわけではないのだろうが、このように考えた後だと、ただスマホというテクノロジーと人間的本能の奇跡的な(必然的奇跡かもしれないが)マッチングが行われただけの、ただの人間なんだなと思えてくる。排除の難しい行動であるからこそ、そんな目線で歩きスマホ人を眺めてみるのも面白いのかもしれない。

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