YouTubeの本質はとは何か?

妻のYouTubeを運営していて、だんだんと羨ましくなって来た。今まで彼女は、羊毛フェルトでの作品を「ただ」作って来た。もちろん趣味なのだからそれで全く問題なかった。

しかし、YouTubeを始めた今、制作時、カメラと僅かな解説を加えるだけで、それは「コンテンツ」となり、この先妻を支える資産になるだろう。寝ていようが、遊んでいようが、羊毛フェルトに飽きてしまっても、究極の話、死んでしまったとしても、世の中に価値を提供し続ける事が可能になるのだ。なんて効率的で、魅力的な行為だろうか。

羨ましい。。。

日に日にその思いは増して来ている。そんな思いで毎日生きていると、だんだんとあらゆる物事を撮影、記録し、発信していくべきではないか?そう思えて気が。もちろん、プライベートを切り売りするのは現在のところは性に合わないので、差し控えたいと思っているが、人生を振り返るとコンテンツ化しておけば良かったと思うことばかりである。

しかし、多くは既に忘れてしまっている

なんてもったいないのだろう。。。あの時身に付けた「Jazzギターの技法」や「スーパーの袋詰めの技」「段ボールを簡単に解体する方法」「割り箸からペーパーナイフを削り出す方法」「感動しながら読んだ本」等など、あげればキリがないが、どれも大切な人生の時間を使って取得した技術、知識であることは間違いない。これら全てを記録さえしておけば、現在、そしてこれから先の自らの、あえて大袈裟に言うがが人類の資産となったはずだ。

YouTubeのユーザーとしての価値の本質はここにあるのだと思う

全ての人々に平等に与えられた「時間」の中での出来事をYouTubeというプラットフォームを通して「共有」することにより、何気なく過ぎ去ってしまうだけの個々人の「価値」を「コンテンツ」として他の人々に提供する。それを受取ったそれぞれの人が、また新たな「価値」を産み出し、それをシェアする。それをまた受取った誰かが・・・・「価値の無限ループ」である。

これほど崇高で創造的な営みが他にあるであろうか

もちろんシェアの方法はYouTubeでも構わない。各種SNSのみならず、書籍、レッスン、講演会など、方法は色々とあるが、どれにも共通するのは、まず「記録」が大切と言うことだ。日々流れていってしまう様々なことを「記録」することにより、それが「コンテンツ」の源となるのだ。そしてYouTubeという誰でも気軽に発信できるプラットフォームほど、それに適したものはないと思う。

妻がYouTubeをやってくれなければ気づけなかった。ぼくも可能な限り記録し、発信していこう。そう思った。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?