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一人称の死、二人称の死、三人称の死

 太古の昔から人類は、生活の身近なところに、人の死を常に置いてきた。人類にとって「死とどう向き合うか」が最重要課題だった。宗教にとって「死者をどのように扱うか」が最重要課題だった。
 現代人にとっては、そうでない。確かに現代人には、こなさなければならない課題が、それ以外に多くある。新しい課題に時間と労力を割くのであれば、代わりに何かを取り止めるのは、当然なのかもしれない。けれども現代人が「死」という課題を解決したわけではなかろう。
 ところで、死には3種類ある。

○ 自分の死    (一人称の死)
○ 身近な人の死  (二人称の死)
○ 赤の他人の死  (三人称の死)

 自分の死体を見ることはできないし、葬ることもできない。その意味で、自分の死は、自分の経験の外にある。
 テレビドラマに出てくる死は、庭に落ちている虫の死骸と同様に、赤の他人の死である。ペットの死も同じだろう。
 古来から、人が常に身近なところに置いてきたのは、身近な人の死である。特に、家族である。

 人間にとって一番大事な問題は、一人称の死なのだろう。けれども、それを直接扱うことはできない。二人称の死を通して、人は一人称の死を間接的に扱うことができる。それが、宗教の役割だった。三人称の死は、一人称の死とも二人称の死とも関わり合うことがない。
 昔は一年に何度も近所で葬式や法事があり、それに参加したり手伝ったりする機会があった。子供たちも、その中にいた。おそらくは、ずっと昔からそうだったのだろう。
 私の実家には仏壇があり、亡くなった祖父母の写真が飾ってあるが、いま住んでる家には無い。変化の速い現代において、大きく変わったことの1つは、二人称の死が遠くなったことである。

 「なぜ死ぬのが怖いのか?」というと、その訳は「自分のことのはずなのに、自分が関われない」からだ。
 そして自分が関われない「代わりに関わる」のが、家族をはじめとする身近な人だ。死はいつも二人称の形で立ち現れる。

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