自己責任の境界線

どこからが自分の人生で、どこまでが自分の力の及ぶ範囲なのか、人は人生の何に自らで責任を負わねばならないのか。

生きていると誰でも理不尽な目に遭いますね。

ですが最近のインターネットでは多くのことが自己責任だと言われがちです。

いじめられる方にも責任がある。騙される方が悪い。そんな相手を選んだのは見る目の無い自分のせい。ブラックな会社にしか入れないような低レベルな人間だから悪い、嫌ならスキルアップすればいい。子供は親を選んで生まれてくる。

私はこれらの加害者側に都合のいい言い訳でしかない言説が嫌い、大嫌い。

子供にとって親とはこの世の全てです。学校は世界です。パートナーとは一番裏切られたくない人のことでしょう。仕事は生活の基礎です。信頼とは心の一部を預けることです。

私はそう思います。

人生で否応なく出会ってきたそれらの人々によって歪められてしまったもの、それは本当に自己責任なのでしょうか。

たまたま毒親の元に生まれたから、たまたま加害してくる人物と出会ったから。

そんな偶然から始まったことにまで人間は責任を持つべきなのでしょうか。この世にそんな責任を持てる人はいるんでしょうか。

公平世界仮説という説があります。

簡単に言うと因果応報、みたいなことです。

この公平世界仮説という認知バイアスがある人が何かの被害に遭った人を見て、自分にも同じことが起こったらどうしようという恐怖を抱くとその恐怖を回避する為に「被害に遭ったこの人はそんな被害に遭うだけの落ち度があったのだろう=そんな落ち度の無い自分には起こらない」と考えることで安心感を得るのです。

ですが最初にも書いた通り、理不尽な目には誰でも遭います。

運とか巡り合わせとか、本当にたまたまなことも多いと思います。

どこからが自分の責任なのか。

自責、他責、自己責任の線引き。

私は『気づいた時から』がそうなんじゃないかと思います。

「あいつのせいで自分の人生はめちゃくちゃだ」と原因に気がついた時。
「あの時のせいでこんなに苦しいんだ」と理由が分かった時。

その後にする行動こそが自己責任なのだと。

被害に遭っただけの被害者は何も悪くありません。

だからこそ被害に遭ったことに気付いて、その原因が何なのか誰なのか分かった後が大事で、責任の所在が明らかな状態で自己と向き合うことが必要になるんだと感じます。

相手から奪われたものを奪い返すのも、相手を責め続けるのも、自分を責め続けるのも、八つ当たりするのも、嘆き続けるのも、無気力に生きるのも、逃げ続けるのも。

それらこそが自分の選択で、自己責任と呼ぶべきことなのだと私は思います。

生きるのが辛い、ずっとそう思って過ごしてきました。

二十代前半までは自分が全部悪いんだと自責することでやり過ごしてきました。

後半を迎えてからは他責することでどうにかならないかと試行錯誤しました。

そして今はやっと、今後どう生きていくかを決めるのは自分しかいないことに気づきました。

私は私の人生において親からの悪影響があったことを知っています。

私に致命的に社会性が無かったせいで起きた同級生との軋轢により、あまりまともではなかった学生時代の悪影響も分かっています。

責任の所在は分かってる、自分のことも他人のことも散々責めた、だから次のステップに行きたい、そう思えるようになってきました。

なにかのせいにし続けるのは楽です、慣れた苦しみしか襲ってこないので耐えやすい。

でもそれでは空疎だと思いました、私はどうせ日々を過ごさなければならないならなにか意味が欲しい、理由も欲しい、楽しみたいし、できれば幸せにもなりたい。

他者に救いを求めるのも、天啓を待つのも、選択肢としてはありますが、私のような凡百にはなかなかハードルの高い夢です。

なので自分で探します、作ります、誰かと協力するのも楽しそうです。

まあ……そこまで意欲的な人間でもないし、そもそも向上心がカケラも無い人間なので、他人様から見て立派な人間にはなり得ないかもしれません。

ただ、自分のために己にできる最善を尽くしたいと考えています。

正解の道は進めなかったけど、これからの自分の行動を正解にすることはできなくもない、多分。
そしてそれが私の自己責任だと思うので。


終わり

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