あああ
大事な人とは一対一で話すのがすきです。
尊敬する人たちからは歩みよる心を学んだ。
会いたいと思う人に共通点はないと思っていた。波長が似ているとか感覚が似ているとかかなぁと思っていた。それもあると思うけどそれだけじゃなかった。尊敬する人たちと話していると歩みよる心を感じ、じぶんにはまだ足りないそれを学んでいた。
とくに学んだのは、歩みよる心というのはどちらか一方だけが持っていればいいものではないということ。ここが大事だった。
幼き頃のわたしがやりがちだった目の前のお母さんの方が辛いのだから自分を犠牲にして一方的に理解する役をやらなきゃいけないとしてしまうこと。これは歩みよりではないのだと思った。
私の方をより理解して、ではなく、相手の方をより理解しなくちゃ、でもない、お互いが歩みよる心を持っていること、それが歩みよりなのだと感じてるじぶんがいた。
マイノリティの人たちが声をあげられる時代になってもはやマイノリティ(少数派)ってなんだろうって感じる中、
わたし個人的に思うマイノリティは(個人の見解だよー)
誰とも共有できない気持ちを抱えてる人のことだと思う。
何を持っていようがどこに所属していようが関係なく、理解者がなく、理解しようと試みてくれる人もなく、誰とも共有できないものを抱えている人たちが精神的なマイノリティなのではないかとわたしは思う。
マイノリティという言葉を聞くとおのずと「社会的に」という認識になっているけれど社会的なマイノリティの人たちが新しい時代を担うマジョリティだと思う。
なので社会的にマイノリティの人でも精神的にマイノリティではない人たちもいると思うし、その逆もあると思う。社会的にマイノリティで精神的にもそうである人もいると思う。
精神的にマイノリティの人は物理的にも一人ぼっちかもしれないしクラスの中心人物の中にいるかもしれない。単独行動しているかもしれないし仲良し家族の中にいるかもしれない。泣いてるかもしれないし笑ってるかもしれない。持っているものだけじゃ分からないと思う。
世界には知ろうとしてくれる人がいる。
どうしてこの人わたしにやさしくしてくれるんだろうとふしぎに思えるほどその人の人生になかったはずのものを想像しようとしてくれる人がいる。
だけどどうしても知ろうとすらしてくれない人たちもいる。
自分の人生に関わりのなかったことは異端、間違い、おかしいと決めつけて終わり、一方的に何かを教えたい人たちもいる。
後者の人たちといるとわたしは疲れるとか面白くないとかそれ以前にそれぞれの孤独を色濃くするように思えた。
考えを押しつけられる側の孤独だけでなく、押しつける側の孤独も色濃くすることだと思った。
じぶんが人との関わりに求めているのは白黒つけることでもえっへんとすることでもなく、どちらか一方に偏ることでもなく、お互いが歩みよる心を持っていることなんだと思う。
それが根っこにある人たちに会いたくて尊敬していて学んでいる。
にんげんは弱くて孤独でかわいい生き物だから、かんぺきになんてできないけど、優劣つけることに興味がなくなったら、どこにも属さない孤独が減るかもしれない。
歩みよることができたら、人もじぶんも精神的なマイノリティではなくなるかもしれない。
顔で笑って心で泣いている人が減るかもしれない。
かんぺきになんてできないけど、これからの話。
。。。
しっくりくるタイトルがなかったです😯あああ
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