わたしがいるよ。
小学生のわたしは加護ちゃんが好きだった。
ミニモニど真ん中世代。
お互いを仲間だと思いながらバチバチライバル視しているモーニング娘。の中で、加護ちゃんは自分の世界で踊っているように、わたしの目には見えた🎠
みんなバチバチ踊ってる中で、ひとりだけふわふわ踊ってる。ひとりだけ、地面から2cm浮いた状態で踊っている、ように見えた。
みんなグループの中で最も目立つために踊っているようだったけど、加護ちゃんはふわふわ浮かんで天に届くために踊っているように見えた。
あくまでわたしの目にはそう映った。
今のアダルト加護ちゃんも好き。
人生の迷子だった時期も含めて彼女が好きになった。
今のアダルト加護ちゃんから当時の話を聞くとなかなか計算高くやっていたみたいだけど(笑)
ほんとうかどうかは本人にしかわからないけど
わたしの目にはいつも自分だけの世界で踊っている唯一無二の女の子だった。
加護ちゃんが未成年の不祥事で騒がれたとき、
わたしはおおきな違和感をかんじた。
どうしてみんなまず加護ちゃんに今までお疲れさまって言わないんだろう。
どうして手のひら返したようにやったことを責めたてるのだろう。
もしそこに被害者がいたとしたら、まずは被害者のケアが最優先だと思う。
だけど加護ちゃんがやったことにとくに被害者はいなかった。
もちろん法律でだめってされていることにはそれ相応の理由があるからいけないことではあるけど
被害者はいないのに、どうしてそこまで責め立てられるのか、わたしには違和感だった。
おとなたちから真っ先に出てくるコトバが「今まで大変だったんだろうね」じゃないこと。
その理由はすぐにわかった。
加護ちゃんが、みんなをしあわせにすることはもう誰の中でも「当然なこと」になってしまっていたのだ。
若い頃から私生活を後回しにしてアイドルとしてみんなにエンターテインメントを届けること、それ相当のイメージを守ること、それが当然なことになってしまっていた。
当然なことなんかじゃないのに。
忙しい日々を送って人々に笑顔を届けることがたとえ本人が選んでしていたとしてもそれは「当然なこと」なんかじゃないのに。
だから、当然だったことが崩れたときにかけられた多くのコトバは
今までありがとうじゃなくて
あなたには失望した、だったのだと思う。
🎠 🎠 🎠
わたしは12歳のころに初めて鬱になってから、今に至るまで、何回もくり返している。
鬱って、完全に治るものではないよねって同じ鬱と生きてる友人と話したことがある。
月の満ち欠けみたいに、だいじょうぶになることもあれば、また何かのきっかけで影を落とすこともある。
治るとか治らないものじゃなくて、
いっしょにどう生きていくか
そういうものだと思っている。
何回もくり返していると言っても、10代の頃みたいに生活の全てがそれに押しつぶされるということはなくなった。
10代の頃の鬱は、それが生活のてっぺんにきて、それを中心に回っていた。
だけど今の鬱は、あくまで心と体からの黄色信号。
これ以上今の無理をつづけたら危ないよって教えてくれるサイン。
だいぶ自分の一部になっていると思う。
自分では「このくらいはできるからだいじょうぶ」と思っていたことでも、心身では我慢や疲れが溜まっていて
そろそろ危ないよって知らせてくれるのが、鬱々したきもち。
そんなきもちが湧いてくるたびに
一旦休憩して自分ができることを見返すために
周りの人たちに正直に伝えてきた。
「さいきん鬱っぽいんだ。」
だから今まで出来ていたこともこれからは難しくなると知ってもらうために伝えてきた。
そう正直に伝えたら、周りから「ゆっくり休んでね」と言ってもらえるものだとわたしの感覚では思っていた。
誰にでもそう言ってもらえるだろうと思っていた。
自分もそうしてきたつもりだから。
だけど、実際に周りから投げかけられるコトバはそれだけじゃなかった。
コトバでこそはっきり言われなくても迷惑そうにされることもあった。
とはいえ普通の生活はできてるんでしょ?と今まで通り頼み事をされることもあった。今まで通り相手の話を聞くことを求められたり、今まで通り明るく振る舞うことを求められることもあった。
そしてそれができないと冷たくされることが何度もあった。
もしわたしがそれまで人の話も聞かない約束も守らないようなひどい人間だったらそう扱われてしまっても受け入れていたかもしれない。
だけど自分が相手に与えられる優しさは与えて来たつもりだった。
人間関係でキホンだと思っている相手の話に耳を傾けることは誠心誠意してきたつもりだった。
自分だってかんぺきじゃないから、人のかんぺきじゃない部分も受け入れようとして来たつもりだった。
自分のこといい人なんて思ったことはない。
わたしだってたくさんの人に迷惑をかけながら生きて来た。
人の話を聞くことも人を受け入れることも自分で選んでやってきた。
だけど落ち込んでる人を迷惑がること、冷たくすることだけは、わたしのキャパを超えていて
それだけは自分の感覚で理解することも受け入れることもできなかった。
人がこわいと思った。
もちろんそういう人たちだけじゃなかった。
中には気づかないところで無理してたんだろうねと労わってくれる人もいた。
だけど、どうしてなのか自分でもわからないけど
カンケイが近ければ近いほど
鬱っぽいんだよねと告白するわたしに
冷たく振る舞うようになる人が多かった。
落ち込んでる人、元気がない人って、だれにとっても都合がわるいと思う。
今まで通りのことはできないし、今まで与えていたものを与えられなくなる。
そんな都合のわるい自分になったとき、相手にとって自分がどういう存在だったのかまじまじと知らされる。
何も役に立つことができなくなっても労わってくれる人は自分の存在自体を大事にしてくれていたとわかるし、
迷惑そうに冷たくなる人は、自分のことを都合のいいことをしてくれる都合のいい存在として見ていたのだと思い知る。
何度も何度も思い知ってきた。
同級生や友人だけじゃない、家族でもそうだった。
家族や仲間の話に耳を傾けること、配慮でやっていたことは、だれにとってもあんたがやって当たり前でしょ。になっていた。
敬われたくてやっていたわけじゃない。
わたしが人に与えられるものがそれしかなかったからやってきた。
だけど自分がそれができなくなるくらいいっぱいいっぱいになったときに冷たくされてもいい存在だと言うならば
わたしはなんのためにいたのだろう。
わたしは存在を大切にされたかった。
何をしてくれるからとか、都合がいいからじゃなくて、ただわたしの存在を大切にされたかった。
🎠 🎠 🎠
善意でやっていたことが当然なことになっていた。
それが悔しいのかどうか今はわからない。
イライラでもない。
もしかしたらのちのちイライラもやってくるのかもしれないけど
ただうんざりだと思った。
人を受け入れることが優しさだと思っていた。
だけど相手の話したいことを受け入れて聞いていたら聞いてくれて当然の存在になってしまい相手が待ち合わせに遅れてきても受け入れていたら待っていてくれて当然の存在になってしまうのを知った。
だとしたら、受け入れることより
できることとできないことを伝えあっていくことが優しさなんじゃないかと思った。
今はまだ鬱々モードだから自分を労わりたい。
人との関わり方がうまくできなかった自分をもう何度目だろうってくらい感じているけど
それでも人との関わりに挑戦した自分に目を向けてあげたい。
わたしの好きなジャニスジョプリンの曲「Little girl blue」に
"いいからそこに座ってただ指を数えなさい。"
という歌詞がある。
アンハッピーな可愛いわたしの女の子。
いいからそこに座って指を数えなさい。
ショッキングなことが起こるとわたしはいつも自分の中の内面世界に逃避行する。
そこには、もう一人のわたしがいるから。
顔も体もわたしなんだけどもう一人のわたし。
傷つきやすさや内向的なところはわたしといっしょだけどどこかバネが外れている「お姉さん」なわたし。
姿形は若いわたしを想像するけど、たぶんいつかの未来のわたし。
誰よりもわたしの味方でいてくれるわたし。
わたしだけを贔屓するわけじゃなく中庸な意見をよこしてくるわたし。
ひとりぼっちだったわたしが生み出した処世術。
彼女がわたしに言う。
いいからそこに座ってただ指を数えなさい。
たくさん挑戦して来たでしょ?
たくさん挑戦して来たこと、たくさん人を知ろうとしたこと、うまくいかなかったとしても、人を知ることが最優先だと耳を傾けてきたこと
それが結果的に都合のいい存在になってしまっていたとしても
自分にできることをしてきたことは覚えている。
わたしがいるよって、わたしに言う。
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