寂しさのない人生なんてどこにあるんだい


家が好きすぎる自分でもずっと家にいると透明人間になったようなきもちになる。
それは寂しかったり、ラクだったり。
ふしぎな感覚。𓂃◌𓈒𓐍

街に繰り出して人のわんさかの中にいると
ここはみんな「ひとりぼっちとひとりぼっちの集合体」なんだなって思う。
うまく言えないけど、ひとりぼっちとひとりぼっちの集合体👯(←繰り返しただけ)
わたしのひとりぼっちとだれかのひとりぼっちはお互いを温めることができる。
現にいま自分が大事にしている人とは孤独で繋がっている気がする。
歓びでもつながっているけど、孤独でつながった部分のほうが結び目が固い気がする。

だれも自分を知らないのが安らぎに思えるときもあるから
週に半分は街にくり出す。
100均寄ってしまむら寄ってサンリオ寄ってそうして帰宅すると透明人間なきもちが半透明人間に和らいでいる🐸

人のわんさかの中にいるともっと寂しくなるときもあった。
学生の頃はとくにそうだった。
一人でいるよりたくさんの人の中にいる方が寂しかった。
だれにも自分が見えていないのに
だれも自分を知らないのに体だけは人の中に紛れこんだ、透明人間。

学生のころは、どこの学校に通ってるの?と聞かれるのが寂しかった。
日本では学生にどこの学校に通ってるの?と聞きがちだけど
カナダでは、何を学んでるの?って聞かれることが多かった。
それはいいなって思った。
中身にキョーミを持ってもらってるようなきもちがした。


なんとなくこのごろ漠然と思うこと。
少し前までは、
あの人は寂しい人で、あの人は寂しくない人
みたいに
分け隔てる時代だったんじゃないかなって。

そしてこれからは
寂しさのない人生なんてどこにあるの?ってそんなやんわりな空気が流れる時代なのかなって。
喜びのない人生も寂しさのない人生もないよねっていう、やんわりした時代になっていくんじゃないかな。

今まで寂しいか寂しくないかの二者択一だったのが、寂しいと寂しくないが混合した新しいものが生まれるんじゃないかなぁって。


寂しい、うれしい、悲しい、たのしい。

それぞれ単色で存在した時代から

寂しいけどうれしい

悲しいけどたのしい みたいな

混色の時代になるんじゃないかなぁと思った。

そしてそれは「ちょうどいい」とか「心地いい」ものなんじゃないかな。


だから、まったく新しい「何か」の名称が生まれることだってあるかも?

サレシイ みたいな。(安直)


この話を夫にした。

わかる?と聞いた。
わかんないと言っていた。🐸🐸


今まで単体で存在していたものたちが混合して

全く新しいものが生まれる時代になっていくんじゃないかなぁって
そんなことを

ぼんやりした頭で考えている。

つまり

カフェオーレ時代になるかもなって。

カフェオーレ時代?

光と影のカフェオーレ時代☕


そんなセカイでは

今までみたいに比較対象があってこそ存在できたものは存在できなくなるんじゃないかな。

光と影、善と悪、明と暗、清と濁、など。

というかそれじゃ物足りなくなるんじゃないかな。

自分オリジナルの感覚(組み合わせ自由)を見つけることが

新しい喜びになっていくんじゃないかなぁなんて思った。


あー。やっぱりまだわからない。

ここまで出てきてるけどワカラナイ。

生まれそうで生まれない。

いまの自分だとカフェオーレ出た時点でピークだ☕️

残尿感あるけどもうやめる。

いつかわかりやすく言語化できますように。



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