感謝をマシュマロと呼ぶ
Do not make it 深刻。
今日頭にふってきたコトバ👆
ふってきた… としか言えない。
たまに、自分で考えてるわけじゃないコトバがぽろっとふってくる。
どこかから、頭の中へと。
白昼夢みたいな容量で、ぽろっと。
🍭🍬🍭🍬🍭
ある日感謝をマシュマロと呼ぶことにした。
なんも意味はない😐🍭
ガッコウであったいやな出来事を話しても、とはいえ周りの人たちに感謝しなさい、感謝感謝感謝感謝言われて育ったので
感謝というコトバがニガテだった。
小さな自分にとって感謝は、心の影を隠すための人工的な光だった。
そのニガテなイメージを払拭したかった。
代替品として採用されたワードがマシュマロ。
サウンドが好きなだけで
味はあんま好きじゃない。
あ、でもレンジでチンして薄〜く伸ばすとパリパリでおいしい。
ココアに浮かべてもいいね☕️
マシュマロと呼ぶと
マシュマロの弾力を思い出しふんわりな気分になっていいなって。
これまた小さな頃は
セカイはあまり感謝を待ってくれない気がしていた。
あなたは恵まれている。
あなたは恵まれている。
それに気づきなさいね。
顔体のことを悪く言われるのがいやだったから自分の容姿がいやだいやだ言ってたら五体満足なだけで感謝しなさいと言われてしまい
だったら悪く言わないでよ。。と思った。
いま思えば巧妙な心理トリックの中にいたな。
周りから見て恵まれてる人に「恵まれてるよ」って言いたいきもちも自分にはあるから当時のオトナたちのきもちはわかるけど
けどどんなに周りが急かして引き出したところでそれは「っぽいもの」であって、その人だけの「ありがとう」は、その人だけの「時期」と「タイミング」があるんじゃないかな。
わたしは自分の体にがんばって働いてくれてありがとうと思えるようになったのは、自分の見た目を悪く言う人たちから離れて、精神的な問題がいろいろ落ち着いたころ。
日本の衣食住がどれだけすばらしいか実感できたのはスラムっぽい街に住んでいたころ。
嗅覚と味覚のすばらしさを実感できたのもひどい体調不良が続いたころ。
諸々諸々。。。
環境を変えずともさいしょから想像力を働かせて感謝できる人もいっぱいいると思うけど、自分にはその遠回りが必要だった。
生きてると先に対応しないとやってられないきもちがいろいろ降ってくるから、感謝は最後でいいんじゃないかと思う。
辛いこととか悲しいこととかムカムカすることとか
いろいろが片付いたときに
ふと思えたらそれでいいんじゃないかな。
とはいえ人として欠けているとは思われたくなかったから
子ども時代は頭ではいつも感謝していた。
のだけど、心で感謝をするという感覚が、いまいちわからなかった。
そしてそのままオトナになり
「感謝の感覚がワカラナイ」というのが、コンプレックスになった。
頭で思考することのない感謝。
どんな感覚なのだろう。
心からわいてくる源泉かけ流し。
どんな温もりなのだろう。。
体験してみたい。
ずっと若いころはそう思っていた。
そう思う反面で
感謝がワカラナイなんて言えなかった。
根っこにあるのは思いを軽んじられたナイーブなきもちだったから
模範解答は聞きたくなかったし
なんにでも感謝できる人のダシに使われた日には
地球に放火して逃亡したかった。( º言º )
感謝の感覚がわからなくても、コトバは使っていいよねと、感謝というコトバはいっぱい使って生きてきた。
それだけでも十分だと思うけど
どうしても子どものころにインプットされたイメージが強くて
コトバ自体にもアレルギー反応を持っている自分がいた。
うーむ。。。
小さなころに植えついた「感謝」のイメージを
書き換えようとしていた時期もあった。
けどやっぱり難しかった。
むりして書き換えようとしなくていいんだよね。
置き換えればいいんだよねと思った。
だからある日感謝をマシュマロと呼ぶことにした。
感謝はマシュマロ。
思いやりは肉まん。
今の時代に生まれてよかったは、焦がしキャラメルフラペチーノホイップクリームモリモリ(今考えた)
コトバを置き換えただけだけど
イメージもいっしょに変わった。
マシュマロ化した感謝は
重かったイメージが軽減された。
あの頃わたしの心の影を見えなくするために使われたコトバ「感謝」。
それは四方八方から当てられた眩しいスポットライトみたいだったけど
いまマシュマロと呼んでいるそれは違う。
光も放たないし、ただそこにいてふんわり浮遊してるだけ。
平穏無事でよかったねぇとマシュマロたちと浮遊しているイメージ(変なクスリはやっていない😑)
これがあってよかったと思う対象も変わった。
命、や、平和、より
もっと身近なちょっとしたことになった。
鼻詰まってないとか。
鍵紛失してないとか。
腰痛くないとか。
今日はみょうが買い忘れなかったとか。
規模が小さくなって
重力が軽くなった。
それがいいことかどうかはわからないけど
目前のよかったことに落ち着いてよかったと思える日が少し増えた。
派手さのないこの感覚はだれからも強要されていない
自分だけのものだなって思う。(・ω・)
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