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人生はゲームなのか。

シミュレーション仮説というものをふと見かけました。

超簡単に言うと、この世界はシミュレーションゲームの中であるって考えです。

人生自体が超広大なオープンワールドでグラフィック完璧で、登場人物が自分も人も含めてとんでもなく作りこまれたゲームだというようなものらしいです。

にわかに信じがたく、スピリチュアル系の話だなって思って一蹴してしまいそうですよね。
あえて肯定的に考えてみましょう。

これは僕の昔の話なんですが、小学校3.4年の頃学校がやけに早く終わり昼過ぎに家に帰ったことがありました。
親は仕事に行っていたし、兄はまだ学校にいたので当然家には僕しかいません。
友達と途中まで一緒に帰り、分かれ道で分かれ一人で数分家に向かって歩いていました。

するとなんとなく世界に自分一人だけしかいないんじゃないか。っていう感覚に襲われました。なぜか無性に不安になって友達が言った道を追いかけてみるとその友達の後ろ姿が見えたのでそりゃそうか。とは思いましたが、返っても何となく不安でした。

ゲームの世界でも画面の中にキャラクターが入ることで初めてキャラクターは登場しますよね。
逆に画面外にいるときもキャラクターは存在しているのでしょうか?

そんなこと考えたこともありませんでした。
理屈では僕が見えていないところでも僕の友達は存在して自分の人生を歩んでいるのは分かっていますし僕の目の前から友達がいなくなったとして友達が消えるわけないこともわかっています。

理屈ではわかっていても、起こっていることはゲームの画面外と何ら変わらないんです。

でもそんな自分も誰かにとっては登場人物で、その人からすると僕が画面の外の存在、存在しているのかしていないのかわからないしどっちでも一緒の存在だと考えると頭おかしくなりそうです。

海外の生まれてから40年くらいあとに初めて会った双子の話をきいたことがありますか?
この双子は離れて暮らしていて、40年弱あったことも無いのにほとんど同じ人生を歩んでいたといいます。
妻の名前や離婚した事、果てには犬の名前まで同じだったそうです。

真実はどうかわかりませんが、これが本当ならすごく興味深い話ですよね。

遺伝子的にもほとんど同じ人で、流しプレイと言いますか自分の意図を入れないままオートプレイさせると大体同じ結果になったりしますよね。

ここで起こっているのももはやゲームと同じじゃないですかと。

現代のゲームもグラフィックはかなり上がり、自由度はかなり高くなってきています。
この傾向が徐々に増していくといずれは今歩んでる人生というのに等しく近いゲームが作られても何も不思議ではありません。

この世界でわけのわからないとされていること柄もゲームの設定と言ってしまえば解決してしまいそうですしね。
宇宙の始まりもゲームのスイッチが入れられただけの話だと思えます。

…まあこのゲームを作った世界の始まりは何なの?と聞かれてしまえばそれまでなんですけどね(笑)

実際問題ゲームなのかゲームじゃないのかというのは関係ないと思っています。

僕たちがゲームのキャラクターでもそうではなくても人生を歩んでいるという実感はありますからね。
今までの行動の結果は自分の意志だと思っていますよね。実際は分かりませんけどね。
ゲームならどうしますか?自分という主人公のレベルを上げて。できること増やして、いろんなところに旅して、いろんな仲間と過ごして、強敵に立ち向かって…ってすると思います。

じゃあやってみよう。
人生はゲームだ。自由度が高く、自分だけのシナリオを送り、エンディングで笑っていることがゴールの趣味レーションゲームだ。

そう考えると人生も悪くないと思えるのかもしれないです。

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こんなこと友達に言うと、お前気持ち悪いよとか何言ってんだこいつってなるかもしれないけど、noteの中にならこんな与太話に共感してくれる人もいると思って書いてみました。
読んでくれた方はありがとうございます。

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