見出し画像

妥当な献金

二年前の今日、安倍晋三元首相が、近鉄大和西大寺駅の前で銃撃され亡くなりました。私は奈良県民で、近鉄大和西大寺駅は、奈良の県に二つしかないターミナル駅のひとつなので、私も一年に何度も利用します。地方のターミナル駅周辺とは、東京郊外の私鉄の駅の周りぐらいの人どおりしかありません。あののんびりした場所で、あんな大事件が起こったことが、今でも信じられない気持ちです。狙撃犯の動機は旧統一教会に対する恨みとのこと。そのことから、メディアは宗教二世について取り上げるようになりました。

少子高齢化の影響もあって、キリスト教会でも、信仰継承ということが、昨今、以前にも増してよく言われるようになりました。そんな中での事件でしたから、宗教二世の問題が、新興宗教に限った問題ではないのではと、声を大にして論じる人たちがキリスト教界の中にも現れています。私個人は「信仰は各々の心にあるもので、皇位とか有形財産とかではないのだから、継承なんてできないでしょう。できないものをしようとしたら、おかしなことが起こるのでは?」と思っています。

今回、またもクローズアップされたのは「多額の献金」です。宗教を持たない人にとって、お布施はまだしも、「献金」は馴染のないもの。私は、お布施のことはよく知りませんが、相場があるという話を聞いたことがあります。長い伝統の中で妥当な金額というものが決まっていったのでしょう。仏教に詳しい方がおられたら、その考えを教えていただきたいです。

お金のことは、無粋と思いながらも、関心を持たざるを得ない、というのが一般人の感覚ではないでしょうか。それで、前置きが長くなりましたが、キリスト教の献金について、私の経験を少し書いてみようと思います。

キリスト教会は、一般的に、妥当な献金額は収入の一割と言っています。旧約聖書を読むと、イスラエル12部族の父となるヤコブという人が、自分の守護神となってくれるなら、自分が捕った獲物や実った作物の十分の一を捧げると誓願を立てている場面があります。そのあたりが十分の一の由来ではと思います。農耕社会になると、収穫は天候など自分の力の及ばないことに左右されるので、収穫をもたらしてくださった「神」に感謝して、収穫の十分の一をエルサレムにあった神殿に捧げたのでしょう。日本にも新嘗祭などというものがありますから、その感覚は何となく分かりますよね。基本的な考えは、自分の力で儲けたといっても、実はそうではない。自分を越える大きな力が、長い時間軸の中で働いてくれて、そのおかげで、私は努力できる環境をもらったし、稼ぐ力を養うことも、儲けることもできた、安定した生活も築けた。そういった事実を認めるひとつの形が、金品を「神」に捧げること。そういう考え方なのだと思います。

現在、日本のキリスト教界では、旧約聖書の習慣に倣って、収入の十分の一程度を自分が籍を置く教会に収めるという考え方の人も大勢いますが、別の考え方の人もいます。その人たちは、新約聖書の考え方に則るといいます。イエスは十字架で死んて復活した、と信じる人たちが作ったコミュニティを当時エクレシア(教会)と呼びました。そこでは、個人の「献金」は、キリストのことを伝える役目を担った人たちの生活支援と経済的に困窮している人たちの支援のために使いました。だから、自分はその伝統に沿って、収入の十分の一を教会やChristian Organizationの運営資金と弱者支援の両方に使ってもらう、というのです。因みに、私の考えはこちらです。普段、通っている教会とChristian Organizationに毎月、いくばくかの献金をし、同時にNGOを選んで寄付をしています。NGOはキリスト系とは限りません。その両方を合わせて、収入の概ね一割を使っています。

私は宗教二世ではありません。縁あって(あえて仏教用語を使いますね。その方が分かりやすいので)、社会人になってからキリスト教を信じるようになりました。収入の十分の一の献金を始めたのは、洗礼を受けてから三年ぐらいたってからでした。まだ若くて薄給だった頃は、十分の一はきつかった。幸い、プレッシャーをかけてくる人はいなかったので、できる範囲で…とのんびり構え、できるようになってから十分の一に。今ではそれが習慣になりました。ですから「献金は大変!」という感覚はないです。ただ、収入の9割で暮らしているので、普通の人より金銭には細かいかもしれません。家計簿もつけています。何かが欲しいと思ったときは、「それはニーズ(needs)、それとも、ウォンツ(wants)?」と自分に尋ねることにしています。もちろん、needs を満たすだけで暮らしているわけではありません。人生を楽しむためにwants にもお金を使います。美味しいものを食べたり、好きなものを買ったり、旅行に行ったり…。でも、needs と wants の違いを意識することは、私にとってとても大切です。wants をちょっと我慢して、寄付を余分にした方が、気分が良いときもありますから。何はともあれ、神に恥じることなく、神を喜んで、ハッピーに暮らすことが、一番大切。それが、私にとって妥当な献金なのです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?