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Noteを始める

いつか書こうと思っていた。頭の中に浮かんでは消えていくこと、自分に向けて語るひとりごと、「ああ、そうだったんだ」と納得したこと、祈りのことばなどを、書いておかなくては、とずっと思っていたのです。思索や感情を表現することが、私がそこにいたということだから。人生の残り時間も多くはないかもしれない。新しい春が来たのだから、さあ、始めよう!

最初に何を書こうかなあ。まずは無難に読書感想文かしら。
絵本「なまえのないねこ」(竹下文子 文・町田尚子 絵)

「ぼくは ねこ。なまえのない ねこ。だれにも なまえをつけてもらったことが ない。 ちいさいときは ただの『こねこ』だった。おおきくなってからは ただの『ねこ』だ」と始まります。そして、町のなまえを持っているねこの紹介が続きます。くつやさんのねこは『レオ』、本屋さんのは『げんた』、八百屋さんのは『チビ』…というように。のらねこ、きたないねこと呼ばれても、そんなのはなまえじゃない。こら!あっちいけ!しっしっ!そんなのはなまえじゃない。そんなある日、雨の降る中、公園のベンチの下で縮こまっていると、小さな女の子が「ねえ。おなか すいているの?きみ、きれいな メロンいろの めをしているね」と、じっと見つめてきます。そのとき、ねこは気づくのです。欲しかったのは名前ではなく、名前を呼んでくれる人だと。そして女の子と「メロン」は、いっしょに歩いていきます。

「欲しかったのは名前ではなく、名前を読んでくれる人」という洞察に共感します。キリスト教に引かれた理由のひとつは、「私の名前を呼ぶ神」という信仰があったこと。名前は、ひとりの人が人格を持って存在していたことを示します。例えば、沖縄の平和祈念公園の「平和の礎(いしじ)」に亡くなられた一人一人の名前が刻まれているのは、その人が、それまで確かに生きていて、その存在の重さを知るべきだと伝えるため。その名を見て、呼んで、手で触れて、そうしてくれる人がいる、いなくてはいけない、と伝えるためです。

神が私の名前を呼ぶということは、神が私をひとりの人格として認め、慈しみ、愛しているということ。私の存在は、決して見捨ててはいけないほど重いと、神が認識しているということ。人間を超越した存在が、そのように私を見ているのなら、「神」と呼ばれるその存在と向き合っていきたいなあと思ったわけです。

名前を読んでくれる人っていいですよね。苗字ではなくて名前を呼んでくれる人。私はそういう人が好きです。

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