見出し画像

どんな顔で会えばいい?

昔、大誤診した。

エクスキューズで言えば、ギランバレーかもって思い精査を提案したが、上級医に否定され、検査できなかった。その後、神経症状が悪化して、ようやく時間がかかってMRIを撮影し、脱髄性疾患の診断を付けた。初診から2週間近く経っていた。

それから文献を漁り診断に焦った。治療も進めつつ、毎日神経診察もして、状況を逐次把握した。多分あの瞬間には、あの患者の症候と鑑別診断に誰よりも詳しい自信があった。

ただ、常に罪悪感と申し訳なさがあった。本人は勿論のこと、その家族に申し訳なさがただただ募り、自分自身が懺悔したいような気持ちでいっぱいだった。上級医も同僚も慰めてくれた。僕がいなければMRIの撮影も更に遅れていただろうとか、治療導入がうんと遅れただろうと言った言葉を投げ掛けてくれた。同情ではなく事実だったのかも知れないけれど、僕は自分の中で肯定できなかった。初診に見逃したのはやはり僕で、研修医だろうが何だろうが、僕自身の診療能力の問題だと思っていた。

そんな僕もローテーションが終われば次の科に行く。その患者を残して、僕はローテーションを終え、時々お見舞いに行くくらいしか治療にコミットできない関係になった。リハビリテーションで徐々に良くなっていった結果、その子にも退院の日が来た。

その日手術続きで忙しく、5時過ぎになって漸く病棟に戻ってきた。そこに、その子はいた。車椅子でわざわざ僕を訪ねてくれた。そして、拙くなってしまった文字で「わたしの病気を見つけてくれてありがとう」と書いてあった。

とても辛かった。自分が満足して胸を張れない診療に感謝されたことが辛かった。もっとやれたはずなんだ。もっと早くに診断できたはずなんだ。そんな思いばかりが募って、ただ後悔ばかりが積み重ねられていった。

僕は今でも、あの日から変わっていないらしい。最近また、先生じゃなかったらここまで持ちませんでしたとか、この病気にしては早くに診断つけられた方ですよとか、色々な言葉をかけてもらっている。どれも、きっと一つの正解なのだろう。それでも、僕は僕のベストとして許容できる範囲の診療でなければやっぱり自分を許せない。

最近僕は恐れている。自分の外来に、そんな患者達が通ってくる。誰も辛くは当たらない。だから、これは単なる僕の罪悪感の問題だろう。

精進あるのみ。ただそれしかない。

でも、僕は外来で、どんな顔して患者さん達に会えばいいのだろう?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?