全力を費やさない理由など無いだろうに

僕は幸運な生き物だ。

口惜しいが生まれた環境は恵まれていた。毎日生きると言う事自体の苦労は味わった事がない。のうのうとドラ息子らしく生きて来て、その延長線上にしか今は無い。ハングリーに生きているつもりだが、言わば、イミテーションワイルドだ。

とある人から、そこまで臨床に打ち込めるのは何故かと問われた。僕のスタンスとしては、逆に、どうして打ち込めないのが普通なのか、と言う形なので、若干答えに窮した訳だが、思い当たることが無いわけではない。

僕は、元々研究者になりたかった。小児神経難病に勝手な因縁を持って、医学研究と言う道に進んだ。実際的には、そこでいざこざがあって、研究者の道をDrop outした形になるが、同時に自分には臨床医として向いている、と言う自覚もあった。

臨床医として生きると決めた時、僕は些かの後ろめたさがあった。自分は研究者になるために、いくつかのライバルを蹴落として医学部に入り、そこで個人では達成できない大きな業績を残して医学の進歩に貢献する、と言うことを自分自身が進学する上での大義名分に掲げていた。その大義がまるっと引っくり返ることに対して無様なような罰の悪いような、そんな感情があった。

そして、もう一つは、臨床医になると言う事は、逃げ場のない戦いの始まりだとも思った。リゲインのCM(時任三郎が24時間戦えますかと問うてくる、アレ)が、主治医制の中で生きる臨床医のあり方と思っていた。チーム性やシフト性であるべきだと言う気持ちの反面、やはり、主治医でなければ超えられない壁がある。そう言う意味での、逃げられなさは、今でもずっと続いている。しかしながら、本当に僕が逃げられないと思ったのは「二人」だ。

僕が勝手に因縁を感じているだけだが、僕の幼なじみが医学生の頃に死んだ。彼はとある医大の学生で、部活の練習中に倒れた、とのことだった。恐らくは、ブルガダ症候群か何かなのだろう。学内で発症した目撃あり、By standerありのCPAは、それでも彼を帰らぬ人とさせた。彼が医者になっていたら、どれだけの人を救えただろうか、と言うことを、その時からずっと考えている。1日何十人の外来をして1日何件かのPCIをして、それを彼の医師人生の中で繰り返したら、きっと多くの人が救われたと思う。そう思った時、そんな彼を知っている自分が頑張らなければと勝手な気持ちを抱いていた。

そして、救急医になると決めた頃から、ずっと大きな違和感を抱いていた。学内で発症した目撃あり、By standerありのCPAは、何故に蘇生できなかったのか。ECPRが今ほど主流ではなかった時代であるが、もし自分がそこにいれば間違いなく躊躇わないだろう。適応波形で無かったのか、はたまた、単純に技術が無かっただけなのか、どうにも自分の中で納得できる答えはないが、救急医としてそう言う症例は間違えられない、と言うプレッシャーをずっと背負っている。

もう一人は、自分にとって最も身近な臨床医だ。正直なことを言うと、僕は医者としての彼をよく知らない。優秀だと聞くし、若い頃は前のめりで精力的だったものと聞いた。自分にとってハングリー精神を燃やしても、常に一歩前にいるのではないかと錯覚させる人だった。領域も違えば、実際の仕事ぶりも分からないのだが、その男に勝ちたいと思っていた時期もあった、俺に全てを与えてくれた、それでいていつまでも目の上のタンコブのように君臨している、そう言う相手だ。

問いに戻る。そこまで臨床に打ち込めるのは何故か。答えは単純だ。それが自分にとって当たり前のことだからだ。こっちが勝手に背負っておいて、生半可な仕事はできない。こっちが勝手に追いかけておいて、手温い努力では済まされない。自分勝手に自分を追い込んでいる、ただそれだけのことなのだと思う。

僕は医者だ。医者になると決めた時から、そして、医者として背負うものを自覚した時から、個人である前に一人の医者なのだ。

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