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「天幕のジャードゥーガル」に学ぶ、真実はいつもひとつ!だったら、きっと私達は楽しくない。

エンジニアとして入社した会社でマネジメントを主にやるようになってから、もうすぐ10年が経とうとしている。

近頃は任せられた仕事の枠を超えて、さらに広範な業務のマネジメントにも足を突っ込みつつある状況だ。
ものづくりの現場でバキバキに働き続けることを夢見た入社当時の私に、今の私はどんな声をかけてあげられるだろうか。部下の業務計画をデスクトップに映し、ため息混じりに修正しながら、思ってたんとちがうという言葉が秒速5センチメートルで頭の中に積もっていく。多分この先も状況は変わらないだろう。


基本的には、あまりやりたくない類の仕事ではあるが、振り返ると色々な経験をさせてもらえたなとポジティブに思うこともある。

宝石のように優秀な人、驚くほどネガティブな人、楽観的に難局を乗り越える人、経験をまったく活かそうとしない人、仕事中にずっと桃鉄をやっている人など、色んな人と一緒に仕事をした。桃鉄をやっていた彼は、1年くらいでクビになった

そんな経験を積むうちに、ずっと桃鉄をやっていた彼よりもヤバい人を見分けられるようになった。私はその人のことを、”意見曲げないオジサン”と呼んでいる。


以下に意見曲げないオジサンの生態を列挙する。

・ある問題に対して独自の仮説を立てる
・その仮説には特に根拠がない(あるいは薄い)。ほぼ妄想
・しかし意見曲げないオジサンは、その仮説に自信満々
・反証しようとすると「まだ仮説だから」「可能性はゼロではない」と反論
・特に自分で仮説を実証しようとはしない

著者の経験より


いかがだろう?
嫌な記憶がフラッシュバックした人も、なかにはいたのではないかと思う。

経験上、意見曲げないオジサンの気がある人はそこそこ優秀だ。平時は真面目に仕事をこなすし、豊富な経験からその人にしかできない活躍をすることもある。
ただ解決困難な問題に直面し、自分の中でヒラメキが発生した時に、彼らは意見曲げないオジサンにメガシンカする。一度思いついた(本人の中では)素晴らしいアイディアは、彼らをモンスターへと一変し、周囲は対応に追われることになる。

せっかく知識があるのに使い方が破滅的に間違っている。少しは『天幕のジャードゥーガル』の主人公を見習って欲しい。



膝を打つ第一話

宝島社が発刊する「このマンガがすごい!」2023年オンナ編1位に選ばれた『天幕のジャードゥーガル』。

「このマンガがすごい!」はオトコ編の1位に「テラフォーマーズ」、オンナ編の1位に「俺物語!」が選ばれた2013年から参考にしないようにしてきたのだが、本作は素直に1位にふさわしい出来栄えだと思う。可愛い絵柄で描かれるシリアスな展開。そのギャップに引き込まれる。

13世紀、イラン東部の街トゥースにて、シタラは奴隷として売られた。買ったのは学者の一族であり、シタラは当初、逃げ出そうとするも、知識の大切さを教えられ、その家で働きながら勉強をすることとなる。家の後継ぎであるムハンマドが、より学問を深めるためにニーシャープールへと旅立った後、トゥースにはモンゴルが襲来する。(中略)モンゴルまで連れ去られたシタラは、モンゴルへの復讐を考えるようになる。

天幕のジャードゥーガルWkipedia』より引用


特に素晴らしかったのが物語の導入を担う第一話だ。

高貴な館に仕えられるよう、教養を身につけることを目的に学者一族へ引き取られた主人公は、奴隷としての自分の価値が高くなることで死んだ母親と過ごした土地から離されることを嫌い、知識を身につけることを拒み続けていた。

そんな主人公を学者一族の後継ぎであるムハンマドが屋根の上に連れ出すシーンが最高なのだ。


ムハンマドは主人公を連れ出した屋根から大きな盤(大皿)を庭へ落とす。盤が落ちた音に驚いた大人たちは、なにごとかとすごい剣幕で庭に現れ、なかには遊牧民が攻めてきたと腰を抜かす者もいた。

慌てる大人たちを見て笑うムハンマド。主人公はいたずらが過ぎると彼を諌めようとするが、ムハンマドは主人公に問うのだ。「(大人たちは慌てふためいているのに)なぜ君は冷静なの?」と。

盤が落ちるところを見ていたからのだから、大きな音がするのは必然だ。主人公が驚かないのは当たり前なのだが、ムハンマドはこう続ける。

導く一言:『天幕のジャードゥーガル』1巻より引用 トマトスープ著



この言葉で主人公は蒙が啓かれる。知ることが自分を守ることに繋がるのだと。

遠い地に売られる未来が怖いのは、その先で起こる出来事が予想できないから、また困ったことに対応できるのかが分からないから、である。しかし知識を身につければ対応できることは増えるし、なにより自分を見失うことが少なくなる。

ムハンマドに感銘を受けた主人公は、次第に知を求めるようになる。この含蓄のある一連の流れが途方もなく素晴らしかった。

これからは私も悩める新入社員がいれば、一緒に高いところに登って地面に盤を投げつけたいと思う。みなさんも是非どうぞ。

Tips!:悩んでいる人がいれば、一緒に高いところに登り、地面に大きな盤を投げつけると尊敬される(注:13世紀では

著者調べ



主人公はこのあと数奇で残酷な運命に巻き込まれることになる。彼女は次第に自分を守る盾として身につけた知識を、今度は復讐のための矛として使うことを決心していくのが、本作の大きな見どころのひとつであろう。

冒頭の意見曲げないオジサンとは異なり、真摯に勉学に励む主人公は誠実で素晴らしかったが、そんな彼女もある悩みを持っていた。

まずはコーランを正しく理解しようとする彼女と比べ、ムハンマドはイスラムの様々な宗派の考えを理解しようとするだけではなく、キリスト教や偶像崇拝者など、様々な知識を得ようと貪欲だ。

どこまで熱心に勉学に取り組んでも、自分がムハンマドと同じレベルに到達することなどあるのだろうか、といった不安が彼女の心を渦巻いていく。知の探求は沼であり、どこまでも終わりがない。

知の探求が沼だと知ったあの日:『天幕のジャードゥーガル』1巻より引用 トマトスープ著



通説の否定、称賛された新説

少し前に『土偶を読む』という本が話題となったそうだ。発刊からまもなくNHKで特集が組まれ、各界の著名人が推薦し、独創的で優れた研究や評論を行う個人を顕彰するサントリー学芸賞の受賞に至った。

本書の主張は、土偶は人をかたどっているのではなく、植物の姿をかたどっている、というものだ。

私が直感していたことは、「土偶と植物とは関係がありそうだ」という抽象的なレベルの話ではない。もっと直接的で、具体的な仮説が私の頭の中を駆け巡っていた。それは、「土偶は当時の縄文人が食べていた植物をかたどったフィギュアである」というものだ。

『土偶を読む』より引用 竹倉史人著


本著では様々な土偶と植物、または貝類との形態的な特徴の近似を紹介している。
例えば市立函館博物館が所蔵する中空土偶「茅空」の頭部は、クリをモチーフに作られたものと主張されている。胴部のくびれなどから女性をモチーフにしているという通説を真っ向から否定している新説の登場だ。

二つの土偶がクリをモチーフにして制作されたフィギュアだと考えれば、「分身のある人間女性像」という説明が惹起する違和感はきれいに払拭され、むしろ誰が見ても納得できる自然な認知がそこに形成される。

『土偶を読む』より引用 竹倉史人著
南茅部の中空土偶:函館市縄文文化交流センター - 北海道デジタルミュージアム著作『中空土偶Wikipedia』より画像引用


私は縄文時代に詳しいわけではない縄弱じょうじゃくなので、そんな主張があるんだな〜くらいに概要を流し読みしただけで、本書を手に取ることはなかった。

しかし、この『土偶を読む』と最も真摯に向き合った書籍の存在を知り、その書籍を読んで興味が膨れ上がった結果、結局『土偶を読む』も読破することになった。
その書籍は『土偶を読むを読む』。縄文文化の専門家たちが、様々な視点から『土偶を読む』の評論を行った本だ。



素人なりの蓋然性判断

何度もいうが、この本がバチクソに面白かった。

本書にて、ある専門家は『土偶を読む』で新説の根拠となったイコノロジー(見た目の類似性)、編年類例(対象土偶の前後の時代に作られた土偶への影響度)、土偶作成とモチーフである食用植物の時代が重なるか、といった観点から、土偶のモチーフ=食用植物という新説の蓋然性確からしさを評論している。

その結果、新説に蓋然性がないことが次から次へと実証されていくのだ。
著者らは批判を前提としない中立的な立場であるにも関わらず、あまりにも新説が否定されて続けていくので、読んでいて清々しい気持ちになった。なかなか無い読書体験だ。


例えば、先程の中空土偶。実はパーツが欠けており、頭部に2つの穴が開いている。そして類例研究から同時期に作られたと思われる土偶には、頭部に2つの突起がついていることが分かっている。これらの土偶は中空土偶と顔もそっくりだ。

もし壊れる前の中空土偶の頭にも2つの突起が同様に付いていたのならば、クリをモチーフにしていたという主張に説得力はない。以上より、新説の蓋然性は乏しいと結論づけられている。

中空土偶頭部(まっくうモデル):町田市ホームページより画像引用



個人的に面白かったのは、あまりにも『土偶を読む』の新説に寄り添うところがなさすぎたため、著者が「主張があまりにも荒唐無稽すぎる……ひょっとしてこれはギャグなのでは?」と自問自答するところだ。著者のメタ認知が暴走していて、真面目な批評本なのに魁!!クロマティ高校みたいな展開になっている。最高だ。

『土偶を読む』を読んでいてちらちらと頭によぎるのは、これはもしかしたらギャグなのではないか、「ネタ」としてやっているのではないか、と、そんなふうに思うことがある。(中略)もしネタ企画としてやっているのであれば、本書は「ネタにマジレス」という恥ずかしいことをしているのでは……、と、赤面の恐怖を感じる。

『土偶を読むを読む』より引用 望月昭秀ら著
批評本でこのノリよ:『魁!!クロマティ高校』1巻より引用 野中英次 著



以上のように、二つの書籍の主張は真っ向からぶつかりあっていた。
土偶のモチーフは食用植物か、あるいは通説どおり女性像がモチーフなのか。どちらの説を信じるかは読者に委ねられている。

そして縄文時代素人の私が出した結論は、なんか通説が正しそうだなぁ、であった。



学問に真摯であること

先の結論を得た理由に、『土偶を読む』と『土偶を読むを読む』の読書体験の違いが、自分なりの根拠になっているなと思った。
そう、二つの本を読み比べると、ある観点において圧倒的な違いを感じたのだ。それは学問に真摯か否か、という点であった。


『土偶を読む』は挑戦的であるが故にエンタメ性が高く分かりやすい本であった。特に専門分野の一つとして土偶を取り扱う考古学に対しては批判的で、イコノロジーという異なる手法から新たな説を提唱したいという意欲は、本書の至る所から読み取ることができる。

現在の考古学における土偶研究の致命的な問題点は、この方法論のリスクと必要性という二項が十分に識別されず、事実上イコノロジーが放棄されてしまっている点にある。

『土偶を読む』より引用 竹倉史人著


対して『土偶を読むを読む』は、序盤ものすごく噛み砕いて読者に歩み寄っているものの、全体的に専門的な内容が多く、難解でとっつきにくい。しかし圧倒的に骨太である。参考文献の量も『土偶を読む』とは比較にならない。
様々な可能性や意見を紹介つつ、蓋然性の高い説を提示する本書のスタイルは誠実そのものであった。


個人的な考えだが、今の世に学問が成り立っているのは、過去の知識人によって知が積層した結果なのだから、これらを踏襲した上で根拠をもって通説を否定するか、新しい説の提案するかをしなければ、どんなに面白い新説であっても受け入れられることはない。学問には真摯であるべきだ。

しかし『土偶を読む』から、その姿勢を感じられることが少なかった。
例えば『土偶を読む』では、先の中空土偶の頭に開いた穴には一切触れていない。だって類型土偶と同様に2つの突起が付いていたらクリに似ていないから。もし意図的に情報を隠していたのなら、と邪推してしまうし、「それってあなたの感想ですよね?」と論破王に問われても、返答に窮するのではと想像してしまった。



以上が素人な私が出した偉そうな結論なのだが、仮に『土偶を読む』だけを読んでいたら、同じような結論に至ったかと言われると、それは大いに疑問である

熱心に勉学に取り組んでいても、教材が偏向していたら偏った考えに陥ることは十分に考えられるし、恐らく偏向していることにすら気が付かないだろう

冒頭に述べた、意見曲げないオジサンと何ら変わらない存在となってしまう可能性を、あなたも私も秘めている。



意見曲げないオジサンからの脱却

私たちが厄介オジサンにならないために、やるべきことは何だろうか?

その答えのひとつを『天幕のジャードゥーガル』の主人公は実践していた。彼女はコーランを正しく理解することにとどまらず、ユークリッド原論や幾何学などへ、継続して知識の幅を広げにいったのだ。

ひとつの考えに傾倒する恐ろしさを、私たちは意見曲げないオジサンを通して理解している。彼らの恐ろしさの根本は、自説に肯定的な意見は貪欲に取り込んでいくが、自説に批判的な意見は一切受け付けないところにある。

色々な可能性や意見を踏まえて活動しなければ、偏向した考えに気づくことはできないし、真実に辿り着くこともない。手垢がつきまくった言葉ではあるが、色んな考えを知ることは大事なのだ。

継続した主人公(エライ):『天幕のジャードゥーガル』1巻より引用 トマトスープ著



次に大切なことは、色んな意見や考え方を理解した上で出した結論が正しいことを証明するために行動することだ。

結論の蓋然性を確かめなければ、仮説はいつだって無敵だ。どんなに可能性が低くてもゼロではないの一点ばりで、仮説を信じ縋ることができる。けれども、そんな状態に意味はない。


会社で働いていると、特に経営に近い人間と仕事をしている時に感じることなのだが、ものすごくシンプルな提案と回答を求められていると感じる。「この提案は大丈夫なんだな!?」「問題ないでいい?」という問に、歯切れよく答えられる場面などほぼないのだが、実際は色々なリスクや前提を噛み殺し、笑顔で「はい!大丈夫です!」「問題ないです!」と答えている

ものすごく不誠実なようだが経営は、様々なリスクを考慮した上で提案しているのか、リスクも含めて方針を判断してくれと提案しているのか、単純に検討が不十分なのかを、回答によって嗅ぎ分けてくれている、と思う。
リスクを恐れて提案しないより、不安でも踏み出すことを推奨されているのだと信じたい。



以上が意見曲げないオジサンにならないための注意点だ。こちらを踏まえて、ここまでの登場人物を振り返りたいと思う。

『天幕のジャードゥーガル』の主人公はいろんな分野の知識を学び、これを生かして困難な環境から生き抜く行動を示しているので、エライ
『土偶を読む』は新説をうちだす行動力があったところはとてもエライが、結論ありきで肯定的な根拠だけに傾倒した点はいただけない。
意見曲げないオジサンは、否定的な意見は受け入れず、リスクを取らずに行動もしないので、一番ダメ



まとめ

個人的にオススメなYoutubeチャンネルである『ゆるコンピュータ科学ラジオ』で「真実はいつも複雑でそれほどおもしろくはない」という主張を過去にしていた。大好きな考え方だ。


物事はいつもいろんな要素によってバランスを保っていたり、もうどうしようもない状態に陥っていたりする状況をみてきたので、先の主張は個人的にとても芯を食っていた。

しかし『土偶を読むを読む』を読むことで、私なりにこの考え方の解像度がひとつ上がった気がする。より厳密には、「真実はいつも複雑で(知的好奇心が足りない人には)それほどおもしろくはない」ではないか。より救いがないが。

正直、多くの人は土偶にさほど関心がないと思う。しかし『土偶を読む』や『土偶を読むを読む』の著者らは、あの土塊人形を通じて縄文人の文化的背景に思いを馳せ、真実を明らかにするために人生を費やしていた。
真実はいつも複雑なのだから、これを解き明かすことは困難だ。だけど書籍を通じた著者らの印象は、とても楽しそうで素敵だった。


見た目は子供、頭脳は大人なアニメ版名探偵の台詞のように、世界が「真実はいつもひとつ!」だったら、きっと私達は早々に退屈してしまうだろう。だってググったら分かっちゃうから。

真実はいつも複雑で分からないから、私達には知的好奇心が宿っているのだと信じよう。一見するとつまらないことを楽しめるよう、知識を身につけることが健全な世の中にありたい。

それでは。

(今までの記事はコチラ:マガジン『大衆象を評す』



余談

今回引用した『土偶を読むを読む』はVtuberの儒烏風亭らでんさんの企画、書庫らでんの推薦図書で知った。オススメの本や他の人の感想が見れる機会はありがたいです。お身体に気をつけて活動ください!


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