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北九州キネマ紀行【門司港編】16歳・原節子は門司港からドイツに向かった〜1937年の新聞に見る国民的アイドル出国騒動記



原節子の関門入りを伝える1937(昭和12)年3月13日付門司新報(部分)=全面をこのページ中ほどに載せています

それは1937(昭和12)年3月だった

戦前・戦後の映画界の大スター、原節子(1920〜2015)。
彼女が門司港(福岡県北九州市門司区)にやってきて、大騒ぎになったことがあった。

それはインターネットもなければ、テレビもない1937(昭和12)年3月のこと。
彼女は当時16歳。
すさまじい熱狂の様子を、当時の新聞からたどってみたい。

初の日独合作映画のヒロインに

小津安二郎監督らの映画出演などで知られる原節子。
彼女は15歳だった1935(昭和10)年、「ためらふなかれ若人よ」で映画デビュー。

翌1936(昭和11)年、山中貞雄監督の映画「河内山こうちやま宗俊そうしゅん」を撮影中、来日していたドイツの映画監督、アーノルド・ファンク博士に見出される。

そして初の日独合作映画「新しき土」(1937〈昭和12〉年)のヒロインに抜擢される。

映画「新しき土」のストーリー
ヨーロッパ留学を終え、ドイツの女性を伴って帰国した輝雄(小杉勇)には、許嫁いいなずけの光子(原節子)がいた。輝男は日本的な慣習に反発し、婚約を解消しようとする。絶望した光子は花嫁衣装を抱いて、噴煙を上げる険しい山に一人で登り始める‥‥。

[総指揮〕アーノルド・ファンク
[日独版の監督・脚本〕アーノルド・ファンク(ドイツ語版タイトルは「侍の娘」)
[日英版の監督・脚本〕伊丹万作
[撮影協力〕円谷英二

「新しき土」は日本で大ヒット。ドイツ公開にあたって、原節子はドイツに招待され、欧州など世界の旅に出ることになった。

これは当時、大変なニュースだった。
海外旅行は、ほとんどの人たちにとって、夢のまた夢の時代。
しかも原節子は映画デビューして、わずか3年目。
日本とドイツは防共協定を結んだ友好国。
日本はすでに台湾や朝鮮半島を併合し、国連も脱退。
満州国(旧満州=現中国東北部)を建国し、戦争への道を歩んでいた。

そんな時代の中、16歳の少女が海を越えて外国に渡る。
日本人にとって彼女は誇らしい存在であり、彼女を親善大使のように見る人も多かった。

その原節子が日本を出国した地、それが国際的な港として栄えた門司港だった。

原節子がドイツへ出発した門司港から広がる関門(かんもん)海峡。そのロケーションは美しい。門司港レトロ観光の見どころの一つ

東京駅は「前代未聞の狂態」

原節子は1937(昭和12)年3月10日、門司港を目指して鉄路で東京駅を出発。
旅には義兄の映画監督・熊谷くまがい久虎ひさとら、外国映画の輸入配給会社・東和商事の川喜多かわきた長政ながまさ・かしこ夫妻が同行した。

駅には2000人ものファンが殺到し前代未聞の騒ぎになった

東京駅での見送りの様子が、まず凄まじい。
東京駅始まって以来という2000もの人が殺到した。
朝日新聞は、その様子を次のように伝えた。
(表記を現代仮名遣いに改めたり、漢数字を洋数字に変えたりしてしています)

見出しは3段で写真付き、ほとんど国民的アイドルの扱いだ。

鯨波・叫喚−−悲鳴
見送り狂騒曲
昨夜 節ちゃんの出発

(鯨波は大波の意味)

記事は

ファンク博士の「新しき土」で一躍世界の恋人となった原節子嬢は10日午後9時半、東京駅発の列車で渡欧の途に上った。
その夜の東京駅の光景を老駅員の形容詞を借りて言えば「‥‥正に前代未聞の狂態だ‥‥」そうだ。


ホームに殺到したファンがざっと2000。
その中、目の色を変えた男学生が約6割。
車窓にしがみつく、恥も外聞も忘れた四十男の一団が広いホームを埋め尽くして、ひしめき合う。

(中略)
車内に動く節子嬢の影を追って、ホームの群衆は右に左に鯨波をあげて押し返す。
男の怒号、女の悲鳴。
警官・駅員の必死の制止も聞かばこそ、さすが銀幕の女王もこの半狂乱の光景には、いささか面食らったらしい。

1937(昭和12)年3月11日付・東京朝日新聞

もうほとんど混乱のうず状態だった。

社会面トップで伝えた門司新報

原節子らは3月12日、下関駅(山口県下関市)に到着。
いったんホテルで休憩をとった後、門司港に渡り、ここから航路で大連に向かう。
下関と門司でも大騒ぎになった。

ここからは「門司新報」という地元紙から引きたい。

門司新報は社会面トップで原節子の関門入りを伝えた=1937(昭和12)年3月13日付

門司新報とは
1892(明治25)年に門司で創刊され、1938(昭和13)年に休刊した新聞。ネットはもちろん、テレビもない中で、全国ニュースも掲載するメディアとして、北九州エリアで広く読まれた。北九州市立中央図書館に紙面データがあり、閲覧できる。

門司新報のフロントページ(1面)=1934(昭和9)年5月1日付

門司新報の記事再録について
▽以下に門司新報の記事を再録しています
▽紙面データは文字がかすれて判読できない箇所があり、その箇所は◯◯とするか、類推文字をあてています
▽記事の一部を現代表記にしたり、省略したり、適宜改行したりしています
▽カッコ内は筆者による補足です

扱いは社会面のトップで、写真付き。
見出しは

熱狂的な歓送迎に原節子 関門通過 
義兄熊谷監督らと共に きのう渡欧の途へ

本文は

【下関】ファンク博士の映画「新しき土」に出演した日活の映画スター、原節子と義兄の日活監督・熊谷久虎氏が、欧州銀幕界の花、(映画「メトロポリス」のアンドロイド役で知られる)ブリギッテ・ヘルム嬢を生んだドイツ・テラ映画会社に招かれて渡欧の途につき、12日午前9時25分、下関着の富士で到着し、直ちに山陽ホテルに入った。

駅頭では学校をエスケープしてやって来た女学生軍に取り巻かれ、清楚な中にも華やかな笑顔の愛嬌を振りまき、駅員も時ならぬ英雄風景に顔負けの感。一行には東和商事社長、川喜多長政氏夫妻が◯◯◯、(原節子は)ホテルの休憩室で記者団に対して

「ただ何と言うわけでもなく、欧州に行くのが嬉しいのです。汽車もこんな長旅は初めて‥‥。『新しき土』で満州に行っていると思っている人があるそうですが、あれは東京郊外のロケなんです」

「あちら(ドイツ)でどんな希望を持っているかと聞かれると困るわ‥‥。今日は洋服にしていますが、向こうではずっと日本婦人の服装で押し通そうと決めました」

と語った。
黒いドレスを着ている姿は、映画で見たより痩せていて、背が高い。


(同行する義兄の)熊谷監督は「伯林(ベルリン)には(3月)26日着きます。到着の夜はフロイヤパラスとかいう劇場で『新しき土』が封切られます。たぶん挨拶に舞台に出ねばなりますまい。欧州の巨匠たちにも会い、みっちり研究したいので、諸方を周遊すると思えば楽しいでしょう。約1年滞在の予定です。私はちょっと節子さんの用心棒と言った形だ」と談笑していた。

一行は10時半、出帆の関門連絡船で渡門した。

1937(昭和12)年3月13日付門司新報

門司でも取材を受ける

この記事のあと、門司に着いてからの別記事が続く。
ここでも原節子は取材され、インタビューが掲載されている。

記者の取材を受ける

(見出し)
「出演するなら絣の日本娘姿で」
うすりい丸で出帆

(本文)
12日朝下関駅到着の富士号で西下した映画「新しき土」のヒロイン原節子さんは、ファンク博士の斡旋で訪欧すべく、川喜多長政氏夫妻、義兄で日活監督の熊谷久虎氏らと共に一旦山陽ホテルで休憩後、同11時、黒の洋装で(門司)税関岸壁に姿を現した。

女学生やサラリーマン、中等学生ら半狂乱のファンに迎えられ、逃げる様に(大連行きの)連絡船うすりい丸の一等3号室に入ったが、至る所でファンが猛進。(原の)くるくるした瞳が一層キラキラ光る。

ーー至る所でファンに騒がれたそうですね
「でも船中だけは楽だと思いますわ」


東京から門司まで騒がれ続けた興奮を船中で憩うという安心から、頬を紅潮させながらポツポツ語る。

「シベリア経由でベルリンに着きますが、途中満州で(「新しき土」が)封切りされるので、ちょっと挨拶にまいります。私の映画では別によく出来たと思いません。しかし熱心に最後まで(演技を)続けたことは事実ですわ」

「あちら(ドイツ)へ参って撮影するかどうかは分かりませんが、ファンク先生はぜひ撮りたいと川喜多さんに言っておられます。もし撮るようになれば『新しき土』のラストシーンで、子供を抱いた時に着た絣の百姓嬢の着物とか、純日本姿で撮るようになるでしょう」

「ドイツ語ですか? 1カ月ほど頑張りましたが、まだとても駄目です。今度帰ってくる時、いくらか上手になってきますわ」

「新しき土」に出演して一躍名声をうたわれ、ファンを浚(さら)ってしまった原節子とも思われぬ表情を浮かべて語った。船中に押しかけたファンの群れは同嬢をとらえてのサイン攻めである。

午後1時、多勢のファンに見送られて母国最後の港門司を出帆した。

1937(昭和12)年3月13日付門司新報

記事には、原節子が「(門司)税関岸壁」に姿を現したとある。
これは現在、門司港レトロの観光施設になっている旧大連だいれん航路こうろ上屋うわや(中に映画と芸能の資料館「松永文庫」がある)前の岸壁だろう。

旧大連航路上屋。1929(昭和4)年に門司税関1号上屋として建造され、大連や欧州航路などの国際旅客ターミナルとしてにぎわった

旧大連航路上屋の(海側の)前は現在、埋め立てられている。
このため、かつてこの建物が港の岸壁と接していたことは分かりにくい。
しかし、建物の前が岸壁だったことをしのばせるビット(船を係留する時にロープをつなぐ金属製の支柱)が残る。
ここで、旅立った原節子に思いをはせてみるのも一興かもしれない。

旧大連航路上屋前に残るビット。大きな船が接岸していたのだろう

(旧大連航路上屋と映画監督・小林正樹の物語をこちらの記事で紹介しています)

半世紀姿を見せず95歳で亡くなった

原節子が門司港から出国した様子はここまで。

原節子一行は、大連からモスクワを経て、1937(昭和12)年3月26日にベルリン到着。
この後、パリを経て、米国に渡った。
そして7月12日、サンフランシスコから帰国の途についた。

ちょうどその頃、日中戦争が勃発。
そして1941(昭和16)年、日本はハワイの真珠湾を空襲し、1945(昭和20)年まで戦争が続いた。
この間、原節子はいくつもの国策映画に出演した。

戦後は、小津安二郎監督の映画「東京物語」(1953年)などに出演、大スターであり続けた。
しかし、42歳の時(1962年)に出演した映画(「忠臣蔵 花の巻・雪の巻」)を最後に、公の場には一切姿を見せなかった。

そして、それからほぼ半世紀後の2015(平成27)年、95歳で亡くなったことが明らかにされ、大きなニュースになった。

原節子の女優人生は、昭和の歴史と重なっていた。

原節子余話 彼女の周辺と火野葦平のこと

ここからは、北九州との関連エピソード。
原節子の周辺と北九州の関わりをなお挙げるなら、若松出身の芥川賞作家、火野ひの葦平あしへい(1906〜1960、以下葦平)との〝接点〟がある。

一つは、原節子の旅に同行した原の義兄で映画監督、熊谷久虎とのこと。
もう一つは、原節子が出演した国策映画「熱風」(1943年)のこと。

「閣僚名簿」に葦平の名

熊谷久虎(1904〜1986)は、大分県中津市出身の映画監督。
監督作品に「阿部一族」「指輪物語」などがある。
(原節子は熊谷の妻の妹)

熊谷は終戦の直前、ある大佐と画策して、九州に独立革命政府を作ろうとしていたという。
この話は、葦平の私小説的な作品「革命前後」に出てくる。

そこでは、九州独立革命政府の「閣僚名簿」が作られ、その中に宣伝担当として、葦平の名が挙がっていた(小説では仮名)。

葦平は戦時中、「麦と兵隊」などで国民的作家になっていたから、熊谷は宣伝担当として適任と考えたのだろう(ちなみに熊谷は閣僚名簿では書記官長)。

葦平は映画「熱風」にメッセージ

葦平は原節子が出演した国策映画のうち、八幡製鉄所(現在の北九州市八幡東区)でロケが行われた「熱風」(1943・山本薩夫監督)は見たと思われる。

(映画「熱風」は、こちらの記事で紹介しています)

「熱風」の原作者は、葦平の友人でもあった小倉出身の作家、岩下俊作(「無法松の一生」の原作者であり、元八幡製鉄所職員)。

葦平は、「熱風」の宣伝チラシにメッセージを寄せている。

私がこの作品に期待する理由のひとつは、長年を自ら溶鉱炉の下で生活し、その熱風のほてりのなかに自分の文学を模索してきた友人岩下俊作がこの映画の原作を書いたということである。そうして彼は自分が生まれながらの生産人であるという気持ちを持って、撮影に協力している

映画「熱風」の宣伝チラシに寄せた葦平のメッセージ「溶鉱炉の下で」

原節子、熊谷久虎、火野葦平、岩下俊作、そして門司港、若松、八幡‥‥‥。
その人生や、そこにまつわる地には、映画も絡む、いくつもの戦争の記憶が刻まれている。
それを知る人は今は少ない。

本州と九州を結ぶ関門橋とその下に広がる関門海峡(左側が福岡県北九州市門司区、右側が山口県下関市)。ドイツに向かった原節子はこの海を見ながら何を思ったのだろう‥‥

参考文献
「原節子の真実」(石井妙子著、新潮文庫)
「新潮ムック 新潮45特別編集 原節子のすべて」(新潮社)


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